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やはり受け容れられないと言ってもいいかな

村上春樹さんの小澤征爾さんへの追悼文を読んだ。

「受け容れがたさ」を書くハルキの文章はかなり珍しい。
ハルキの創造の登場人物たちはみんなありとあらゆることを「受け容れる」が、それはやはり作品の中の出来ごとであってライブではない。ハルキさえも受け容れられない、というよりは、小説家という職業をやっているが普通の村上さんのごく当たり前の感情が、ハルキのいつもの手法で書かれている、というだけだ。
この話に出てくるどの小澤征爾さんも、あったことも見たこともないけれど、イメージが付く。余計なことなくしかもありありと。それがやはり書く力であり表現力であるのだろう。


実は、お世話になった杉村先生への追悼文を書くように依頼があった。「お疲れさまでした」「哀悼の意を」「安らかに」という常套句に違和感しかない(特にこの2日間はどこかしこに溢れていた)。本当に悲しいし、ありがとうございましたというには、まだ受け容れられていないんだと思う。
そう、あの手帳にもう一緒に演奏する予定も、一緒に行くバスツアーも書き込まれないんだと思うと、悲しくて悲しくて仕方ない。未だに。


あやめが家でこれを見て泣いたらしい。

こんなもん、見れるかよっバカバカバカ


私は自分の猫たちを見て、彼らの死を私はいつか受け容れ、彼らが骨になって灰になることを受け容れないといけないことをいつも感じるし、ため息が出るほど胸がざわつく。毎日何度も思う。だからこそ撫でつけるようにさわる。彼らが生きている間はずっとこうしているのだと決めるのだ。


それでも、人間の死を受け容れるには私はまだ幼いのかもしれない。まだ心のどこかで死者との次の予定が決まることを期待し、そして、それがないことに気づき、落ち込む。未来は生きているものにしか訪れないのだから。

20240211

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