やさしさは行動じゃない
やさしさとはなんだろう。
優秀、優れる、マサル、ユタカとも読む「優」
簡易、貿易、占いの易の「易」
どちらも「やさしい」になる。
「シンプルが1番」とも取れるし
「簡単であれば心がゆたかになり、やさしくできる」とも取れる気がする。
いずれにしろ、やさしさを言葉で表すのは非常に難しい。
こんなことを考えたのは、これがキッカケである。
私は、みんなやさしさを持っていると思う。それはなぜなのか、姪っ子の話を中心に書いていきたい。
気づくことがやさしさ
私が悩んでいたとき、こんな場面があった。
私はこの姪っ子を「優しい」と感じた。
なぜだろう。
姪っ子は当時2歳。カードを励ましたいとか、カードに心痛めていたとかではない様子だった。
でも折れていることに気づいたから、痛いの痛いの飛んでけをした。
「痛いね」って気づいた。
姪っ子が何も言わなければ私はその優しさに気づくことはなかったが、言ったから優しいのか?と考えるとなんだか違う気がする。
もう1つ、姪っ子のエピソードがある。
私はその頃、家族と上手くいかず家に居ずらかった。昔は寝る時以外は常にリビングにいた私が、TVもない自室にばかりいた。
あの日は、泣きながら仕事に行った日だった。ケンカはしていないけど、親や姉が私を「普通はもっとこうだ」「心配だ」など繰り返し何度も言うので実家に居場所がないような気持ちになり、責められている気持ちになり、同じ空間にいるだけで涙が出てきた。
帰ると外で母と姪が遊んでおり、母と目を合わせたら涙が出そうだから姪にだけ目を合わせると「ぴいちゃぁん?」と近づいてきた。
姪は私には気分屋で、気が乗らない日は他のことに夢中なのに、よく食べると私がよく褒めるので一口ごとに私の顔を見るような都合のいい所がある。
その姪が、私に近づいてきた。手を伸ばしてハグをした時、ただそっとハグされるだけの姪が暖かかった。
(あぁ、この子は私が泣きそうなことわかるんだな)
となんとなく感じながら、母に気づかれないように涙を拭いて小声で「ありがとう」と言った。
姪は私の名前を呼んで抱きしめられただけだ。
でもそれが、私の悲しさに気づいて気にかけてくれたのだと思った。
気づくのは、相手を見ていないと気づけない。
以前このことに近い記事を書いた。
「愛でる」とは「目で見る」こと。
だから愛することは見ることなのだ。
「優」の字には「目」に見える部分があって、やさしさも始まりは見ることなんじゃないかなと思う。
見て気づくこと。
気づいた後の行動は人それぞれで、相手は放っておいてほしいのに声をかけたら、相手にとってはやさしくないと思う。形になると、フィットするかは相手次第なのだ。そのやさしさは主観でしかない。
私はよく「行動には善し悪しがあるが、感情に善し悪しはない」と言っている。まじりけのない純粋なやさしさは、行動ではないと思う。
大人になると、何かに気づいてもどう行動するか色々考える。
じゃあ選んだそれが優しいか優しくないか、全員一致することはあるのだろうか。
ありえない。
やさしいの行動は、正解がない。
だから私は、相手に気づいて考えたこと、それ自体がやさしさなんではないかと姪を見て思った。
この世には、誰も気づいていないやさしさがたくさんある。
誰かのやさしさに合わなかったらやさしくないわけじゃない。
悲しんでいる誰かを、悩んでいる誰かを、人を傷つける誰かを見て、何かしようか考える、悩む、迷う。
それ自体が無色透明なやさしさで、その後乗せた色を見て周りはジャッジするだけ。
みんな純粋なやさしさを持っているのだと、想像できる人間でありたい。
そして、気づいてくれてありがとう。と言えるやさしさを私も持っていたい。
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