ジブンの取説はジブンでつくる
最近「HSPなんです」とよく聞く。
こんなにも聞くならHSPじゃない人の方がマイノリティなのでは?とたまに思ったりする。
私が繊細な面を出すと「HSPですか?」と聞かれることもある。
そんな時「全く当てはまりません」とハッキリ返す。
実際、ネットに溢れるHSPの診断は何度やっても「傾向あり」すら出てこない。
だからといって落ち込むこともないし、むしろ唯一無二の繊細さなのだと、開き直る私。
生きづらさというのは、誰しもが持っていて、それがどんな面でどんな風に現れるのかが違うだけだと思っている。日本という環境だと感じやすいのか、学校だと、家だと…と、人それぞれ違っていて、たまたまその環境だから生きづらさを強く感じる人とそうでない人がいて、誰かと生きている限り、100生きやすい人はいないと思う。
皆、自分の生きづらさをなかなか言語化できないのだと思う。
人は毎日変化するから、昨日平気だったことが今日は辛かったり、同じ言葉でも人が変わると傷ついたり、あまりにも立体的すぎるから、数学みたいに「イコール」で表せないのだろう。
HSPという概念は、生きづらさを大まかに言語化したものであり、仮に診断すべてに当てはまった人同士が集まっても、全く同じ生きづらさというのはあり得ないはず。
こんなことを考え始めたのは、この記事に深く共感したからだ。
この記事ではHSPという名前をつけることのメリットデメリットを挙げている。すぐに読めるので私の記事をここまで読んだならぜひ読んでほしい。
特に納得した、記事の最後のこの部分。
HSPを免罪符、弁解に使わないことである。「自分はHSPだから仕方がない」と諦めたり、「HSPだから、社会が悪い」のような、他責的な思考パターンには陥ったりしないことが大切だ。こういった考え方になるのでは、自分自身によるHSPとの診断が、むしろ本人の自己成長を妨げ、幸福度を低くしてしまうと考える。
私は、障害の分野で同じような考えを持っていた。
ASDの弟はよく「自分は障害だから」ということを言うのだ。
たしかに、障害だから他の人よりも凹が目立つことは多いが、それを理由にするのはなんだかおかしいといつも思っていた。
そんな風にばかり考えてしまう時期はある。ということを前提にしても、ずっとそうやって生きていくのは違うのではないか。と、思う。
生きづらさに名前は必要なのか
記事を読んで、人はなぜ、名称に逃げるのかと考え始めた。
名前があると救われるが、名前を理由にしては余計に苦しむ気もしている。
そうして考え、私の「なぜ」の答えのひとつが出てきた。みんな自分のパターンを知らなすぎるなのではないか。
自分の取扱説明書がない。扱い方を知らないのだ。
どんな時に、どんな状況で、どんな人に、何をされると傷つくのか。傷つかないのはどんな時なのか。何が嫌で何が平気なのか。繊細さを自覚している人ほど、把握したらいいのだと思う。
私はHSPではないが、何に傷つくのか、何が嫌なのか、じゃあ傷ついた時の対応はどうするか、ある程度把握しているつもりだ。
そもそも、嫌なことには極力触れないようにするし、自分の繊細さを大切にしている。
「仕方ない」と思うことは多いが、私の「仕方ない」は、どうやら諦めるというより、認めるに近いようだ。どうにもこうにも、その自分の性質は変えられないようだから、じゃあどうしようか。という感じだ。
魚はどうやっても肉にはなれないし、ピーマンはどうやってもニンジンにはなれない。
私はどうやっても私にしかなれない。
これが辛いことには変わりない、じゃあどうするか。
私が変えられるのは自分の思考と行動だけなのだ。
「私はこうだから、こうする」
そう決めるしかないのだ。
外の名前は枠に似ている
ところが、外で決まっていた名称に入る形で当てはめると、不思議なことに先程の「仕方ない」「社会が悪い」などの思考になる人も多い。
それは結局、自分の定義を自分で決めないからなのではないだろうか。
自分と向き合って生まれた自分の定義は、一言では収まりきらない性質ばかりになり、その時どうするかは、細かな取扱説明書のように自分の中にインストールされる。
もちろん、日々の中で変わっていくから、常にバージョンアップもする。
しかし定義を外の名称だけにしてしまうと、その名前の中に自分がすっぽり入る形になるのではないだろうか。外の取説に自分を当てはめる感じだ。
HSPはあっていい、あっていいが、「HSPぽいけど」の「けど」をもっと大切にした方がいいのではないだろうか。
「けど、こんな時は気にならない」
「けど、こんな時はもっと気にしいになる」
「けど、この部分は違う」
「HSPは」ではなく「私は」にしないと、私の人生ではなく、それはHSPの人生になっている気がする。
だから「HSPですか?」という質問もなんだか違和感があったのだろう。と書きながら気づいた。
HSPだろうが違おうが、私は私であり、私の繊細さに共感したのなら「私もそう感じることがあります」とか言えばいい話なのだ。
「私もHSPなので」は、ハッキリ言って余計だ。私とあなたが共感するために、その概念がないと共感できないのであれば、悲しいかな。私はあなたに一生共感できないことになる。
私はHSPに当てはまらなかったからこそ、自分に当てはまる言葉を探し続けているというのもあるだろう。それは名称ではなく、どんな時にどう感じるかという、非常に細かな私の取説をずっとずっと更新し続けている。
「わたし」で生きるのは孤独で難しい
自分だけの取説を持つことは、全て共有できる相手はいないということでもある。
みんな、誰かと気持ちをわかり合いたいと思う。私も、全部わかってくれたらいいのに。と思う時もある。
けど、自分の人生を歩んでいるのは自分だけ。せめて自分の気持ちや感覚は自分自身がわかってあげようと見つめないと、誰かに説明することすらできない。
外の名称の助けを借りるのはいいが、「ここが同じでここは違う」という線引きをしていかないと、名称に振り回され「私」で生きられないのかもしれない。
人と違うという絶望だって、話すことができれば「わかろうとしてくれる」「聞いてくれる」誰かの有難さを感じる幸福になる。
でもその絶望すら知らなければ、周りとなんとなく同じな気がする安心感で、枠の中に自ら入ってしまう、どこかしっくりこない感覚のままなのだろう。だから諦めや他責になる。
生きづらさを楽にするのは、HSPと向き合うことではなく、自分と向き合うことなのではないだろうか。
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