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【感情紀行記】既得権益

 既得権益と聞くと、なんだか長老たちがどこかの料亭で悪いことを決めているようなイメージがある。しかし、わかりやすいイメージとか、共通の意識というのには少し離れてみると他のことが見えてくるものである。確かに、長老たちの悪巧みというのもあるのだが、本当にそうなのだろうか。

 就活などで、見た目を良くしましょう、清潔感を持って、などという言葉が跳梁跋扈している。しかし、人間はどこまで変えられるのだろうか。ニュースには、同じ内容を答えたとしても、顔が異なるだけで就職率が変わるという調査などがある。他にも、アメリカでは名前を変えただけで、就職率や間違いへの寛容度が変わるという調査もあるようだ。容姿なんて、過度に変更する方法もあるが、常識的な範囲であれば、限界がある。清潔感はなんとかしても、清潔感を与えられる容姿とか、スタイルというものは自分で作り出す限界があるのではなかろうか。そうなると就活市場、いや人生において、容姿やスタイルの優れている人というのは既得権者なのではなかろうか。既得権益のドロドロした長老のイメージが一気にさっぱりと、清潔感が溢れるものとなってきた。こうなると、この側面においては、流行のファッションとか、髪型、テキトウなルールを作り出し続けるマナー講師など、出鱈目な一般常識のようなものを形成する人々全てが既得権者であって、利害関係者に見えてくる。

 歴史的な背景から見れば、「普通」が国家として制定されるきっかけは、義務教育の始まりであろう。フランスから始まったとされ、ナポレオンが成功したとされる所以の一つである、画一化教育とも言える教育の制定だ。「普通」文明はこうして開花し、日本でも今日まで強く咲き誇ってきた。確かに日本社会においても、少しずつ見直しが進み、個性なるものを重視し始めた。しかし我々はいまだに作り出された「個性」の強調と、画一化された普通の振り子の中にいる。小学生で画一化の箱に入れられ、大学入試などで個性を発揮し、会社では再び歯車化としての画一化教育の箱に収まる。

 ともかく、「普通」文明の一般常識である見た目を「良く」する行為とか、共通コンセンサスたる「清潔感」を生まれ持って持ち合わせる既得権益打破には、その常識に対する疑いの眼差ししかないのであろう。一般的に良いとされるものを良しとしない「異端」でなくて、一般としての疑いこそ重要だろう。

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