【感情紀行記】家族と共に
我が家には大変ポンコツな母がいる。自分を産み育ててくれた親に対してポンコツというのは何事かという問題はあるのだろうが、そういう社会の目に忖度せずに申し上げれば、ポンコツである。全てがポンコツというのではない。一部分ではとても優秀であるし、とてもデキる人である。
そんな母がなぜポンコツかといえば、忙しなく、どことなく抜けている部分があるからである。決してボケているわけではないのだけれども、少し考えればわかるような当たり前のことを聞いてきたり、物にぶつかったり、ひっくり返したりする。かくゆう私は母に似ていると言われ続けているので、そういう思考回路であるとか、身の振り方というのは少しわかってしまう部分もある。そういった面も含めて母らしく、人間らしい、愛くるしい人物なのである。
しかし、そんな人物と何十年間と過ごしているとイライラしてくることも多い。ある日、ジムに行くために、「お風呂は最後に入るよ。」と母に伝えた。その日は、母が最後から二番目に入浴する順番となっていた。ジムで汗をかいたため、帰り道は心底寒く、暖かいお風呂で暖まろうと、楽しみにしていた。服を脱ぎ、ドアを開ければ、ピカピカに磨かれた空っぽの浴槽が待っていた。落胆したものの、ジムの帰りが遅くなってしまい、こういうこともあろうと少しは許した。しかし、シャワーを浴びていると、水が段々と冷たくなってきた。これはよくあることで、寝る前に両親のどちらかが、寝室の横にある給湯器の電源を落としたことが原因なのだ。イライラしつつも、給湯器の電源を浴室の中から入れ直す。少しして、暖かい水を使っていると、また、段々と水が冷たくなってくるのだ。再び誰かが給湯器の電源を消したのだ。流石にイライラしてしまう。しかし、一階にある浴室から二階にあるリビングまで声は届かない。やるせない気持ちになりがなら、再びシャワーの水を出す。胸に当てた瞬間、心臓が止まるような冷たさが体を滴る。再び何者かが給湯器を止めたのだ。
その時点で犯人を確信し、シャワーを諦め、寝室へと向かった。もはや、怒りよりも笑いが勝ってしまった。一回目の給湯器の停止はわかるが、再三に渡る再起動を経てもなぜ誰かがシャワーを浴びているという発想に至らなかったのか。何度も停止ボタンを押しては起動する給湯器になぜ何も思わなかったのか。笑いながら苦情を申し立てていると、横で寝ていた父親が笑いながら口を開いた。「2回目は悲劇だけど、3回目は喜劇だな。」と。なぜか大爆笑しながら謝っている母親を横目に、笑いが止まらなくなっている自分は、勢いよく寝室の戸を閉めた。
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