【感情紀行記】気高き店
世の中、意識の高い店が肩を寄せて立ち並んでいる。ただ料理が美味しいというよりも、店舗が綺麗とか、盛り付けがオシャレというのがSNSの発達から急速に進んだように感じる。それは体感的にも、社会的な認識としても大きな相違はないだろう。
自分はそういった店が本当に苦手である。普通の店であっても初めての店はとてつもなく緊張する。メニュー表がわからない、価格帯がわからない、店の雰囲気、店員さんの態度がわからないなど、入ってみないとわからない、恐ろしい未知の要素がそこらじゅうに溢れかえっているのだ。かくして山積されている課題を乗り越えて店の扉を開けたとしても更なる課題が、待っている。お客さんが並んでいる中で自分の番が回ってくる前に自分の注文したい品物を選び、後ろのお客さんにストレスを感じさせないように会計を済ませなければならないのだ。振り向くことのできない人物の背後から感じる圧というのは凄まじい。
近年、チェーン店であっても気高き店は急増している。まず、サイズがS、M、Lで書かれていない店は、苦手である。なぜもそんなにパッと聞いてサイズの序列とその大きさが発想しづらいシステムにしているのかが理解できない。そして、そのような店に限って、普通という概念が通用しないことが多い。ひどい場合には、サイズの種類が4つあったりする。S、M、L以外のサイズをおしゃれな表記を口に出して注文するような自分を誇示する、そういうさもしい行動に出たくない上に、その大きさがわからない自分はその店や店員さんの思う、普通のサイズというものを注文したい。しかし、4つサイズがあれば、真ん中がないのだから、普通という概念がない。当然、顧客に確認せねばらない。そのやり取りが苦手である。そういう愚痴を漏らし、システム設計に講釈をたれていると、必ずといっていいほどそのファンマーケティングに引っかかっている人々はいう、「そういう人は来なければいい、求められていない。」と。現代の選民思想である。歴史上でさまざまな恐ろしいことを引き起こしてきた概念が令和に復活してくるのだ。恐ろしいこと極まりない。
システム上の欠陥は理解したとして、今度は店員さんとのやりとりがハードルとなってくる。気高き店では、「こちらのカスタマイズがおすすめです。」とかいう恐ろしい文言が飛び出してくることが少なくない。そしてその内容であるトッピングや、カスタマイズの名前が難解であって、一介の大学生には理解できないものとなっている。レジという切迫した環境において、後ろにも人が待っている状態で、味も色も原材料も想像することもできないカスタマイズをお勧めするという強引な手法に毎回引っかかってしまう。断るのもケチだと思われそうであるし、店員さんの善意ある提案を断るほど強い意志や見識は持ち合わせていない。最近社会的に問題となっている企業と同じ手法でないか。顧客の理解していない隙に、強い圧力で持ってどんどんと値段が釣り上がっていく。
ここまで来ると、顧客犠牲極まれりといった感じである。そういう犠牲になる顧客としての被害妄想に立ってふらふらと街を歩いていると、利用できる店というのは年々減少し、新規開拓も行うことが難しくなってくる。息苦しい社会になったものである。もう少しこういう顧客のためを思ったお店はないのだろうか。
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