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まだ四年、もう四年 - 最近何をしたか 5/26-6/5

なんだかnoteがいうにはnoteに登録か発信かして四年が過ぎたらしい。そんなこと憶えてもなかったし、なぜ去年まではその通知を気づかなかったのだろう。まさか今回だけではなく、そういう通知は毎年あるよね、と一瞬考えてしまった。私が鈍くこれまでは気づかなかっただけ、 もしくは忘れてしまっているだけかもしれない。そして四年という時間を考えると、たった四年しか経っていないのかと思う反面、もう四年も経ってしまったという思いも浮かび上がってくる。この相反した感覚はなんなのだろう。それが人間というものなのだろうか。なんて考えた。

この四年は長かった、いろいろなことが起きたからだ。noteの通知ということでnoteの年表として考えれば、最初の一年はまさにnoteを始めたということだろう。繰り返していた入院が終わり、自分の体も治ることはないが一段落して、少しだけ動きだした。相変わらず音楽を聞いていて、口を開けば血や毒が出る、そして以前から詩人とうそぶきつつ書いていた詩や、新しく書いた詩を載せてみた。ただの散文詩のようなもので、詩というのもおこがましいのかもしれない。しかし私にはそういうことはどうでもよくて、思うことを書き、自分が詩だと思っているのならそれでいいということにしている。

ただ一年目を思い出し確認してみると、コラム的な日常のことや音楽、そういうものが多い。今思うと不思議なくらいだ。詩を載せるのが恥ずかしいというものでもなく、出し惜しみなんていうこともないはずで、ただのタイミングとリズムだろう。他にもTWSを中心としたハードウェアのこともそこそこ載せたりしている。初めてのnoteの初期という期間なので手探りだったのだろうし、実際は書くこともそうだが、見出し画像を作るのは何倍も大変で苦労していた。今も一部苦労していて時間はかかるが、それも最近やっと少しずつ慣れてきた。

二年目になると相も変わらず、普段のままの日常を描写しているような状態だった。ただこの頃に晴らしい人に出会った、ちょうどnoteを始めて一年くらいの時期だ。それまでにいた家族や友人、生き物も含めて、また違う新しい世界が私の生のリズムに微妙な新しいなにかを加えた。今までとは違う微妙な進化をしたのかもしれない。それは同時に混乱も生じさせたが、生のリズムが変わったことで視界も変わっていて、その刺激のおかげでそんなことは取るに足らないものだった。とはいえnoteに関しては大きく変わることはなく、内容は微妙に変わったのかというくらいだ。

その年の暮に飼い猫が死に、人と離れ、そして身体的な問題も多少上下した。前者二つはやはり苦しくて、喪失感と積み重ねられた記憶は私を揺さぶり、罪悪感などの小さい思いはその時時で私を刺す。そしてそれは罪悪感だけではなく、悔いの杭は穏便にだが私に突き刺さり続ける。それでも平気な人間ではあるし、厚顔な私でもあるのだろう、止まったこともあったが、大体の場合noteは淡々と続けられていた。それらの揺らぎはnoteに載せるものにも現れていただろうし、今も変わらない。思うに複雑な人間とそれが作る社会のさらなる複雑さ、それに翻弄されてしまいそうにもなる。例えばやっぱり猫がいないとダメなんだ。あなたがいないとダメなんだ。ということになる。

時間が経てば生々しい今からは遠ざかり、少しずつぼんやりとしてゆく。しかし決して忘れることはなく、お腹の底には昔からのそんな重いものが少しずつ溜まってゆくばかりだ。最初に書いた、noteからの通知が分からないということだが、二年目の終わりにはそのことについてコラムめいたものを書いている。多分通知があったのだろう。結局は忘れていたということ、私の感覚では忘れてしまうほどの遠い昔、その時にも書いていた老いの賜物だ。そしてこの頃から現在と同じような構成になっていて、そこからもう二年ということだ。同じことを二年も続けている。そう思うと色々な思いがめぐる。

この四年は短かった。振り返ると長くも感じたことを書いたが、noteという視点で見てみれば短いとも思える。特に同じことを現在進行形で二年も続けている、ということでも分かるように、案外単調で短く感じるものなのだろう。最初は初めてでよく分からない、そしてさまざまなことも起きる、それでも振り返ってみればつい最近始めたような気にもなってしまう。noteに書いていることと普段の起こることは違うことだ。だが一切接点がないわけではなく、書くものには大いに影響している。そして少ないがその逆もある。

今回の通知をもってして五年目に入ったということになるが、それついて特別な思いというものはまったくない。もっと表現するとかパワーとか、そいういう気概のようなものはゼロだ。自分がなにをしているのかもよく分からずに考えているが、多分私のnoteは必要のないただの褪せた風景のようなものだろう。すごく小さい自己満足に過ぎない。なのに惰性なのかは分からないが止めるつもりはない。相変わらずなにもないのである。


風に吹かれて

沈み込む、街の中、空気の中に。溺れることはないけど時間が経つごとに少しずつ苦しみは増す。さまざまなものが崩れ落ちてしまう。手を見れば粉々の道のり。クワイエットな世界をうごめいているだけで、伝えるすべはないと認識し端々から崩れ壊れ消えてゆく。粉々だ。目を閉じれば闇、そうしたら砂のように粉々になった目も、風に吹かれ消えてしまうだろう。


不安の冬

物を買うのが久しぶりということではないが、食品ではない新しい機器を使うのは久しぶりだ。そんな買い物は楽しいし、わくわくする。だが選んだそれは歪んだ思想に合わなかった外観、それでも美しさに惚れれば初日から逆襲が始まる。これからさ。そう言い聞かせているが不安の冬は必ず来る、夏にもなっていないのに冬を心配だなんて、と笑われる。耳から出している時点でねえ。


痛い

極端なことをいうつもりもなく、いつものこと。朝焼けのあとに旭日があるように、夕焼けの黄昏を闇が呼ぶように、なにも変わらない。垣間見たのは多分高貴なお方、気に食わなければ切り捨て御免、お家ではなく存在の御取り潰し、コークスで熱した鉄バットでケツバット=フルスイング。血の精算。怖くはないが痛いはすだ。痛いのは肉体ではないよ。分かっているよね。



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