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映画、歌、表現、人、こころ

映画を見た。後にハリウッドでリメイクもされいて、そちらが有名らしいが、私が見たのは元ネタというかリメイク元の作品で"エール!"という映画だった。フランスの田舎で酪農を生業として生活をしている聾者の家族の中に一人だけ聴者の娘がいるという物語で、ちょっとした青春映画でもある。その娘が学校で気になる男の子を追って何気なく入ったのが合唱クラブ、そこで彼女は歌がうまいと気づくことにより物語は動きだす。実際に彼女には歌の才能があり、声量、声質ともにすばらしく、その才能に音楽教師も気づき、パリの音楽学校への受験を勧められ、才能を開花させる努力をする。本人も音楽学校に進学するのを望むが、聾の家族を気にしたり家族に気にされたり、少しの恋愛なども交わり話は進む。

主人公の少女を演じたのはルアンヌ・エメラという人で、私は知らなかったが歌手として有名らしく、そう考えると歌がうまいのも分かる。フランスのオーディション番組に参加した後、The Voiceという日本でもフランチャイズが放送されたくらいの有名オーディション番組に出演し、その番組を見ていた監督に才能を見出され主演したようだ。映画自体はとても感動するとか素晴らしすぎるとか最高とかそういうものはないが、面白くないわけではないし悪い話でもない。多少の紆余曲折のある楽しい映画とも言える。ただ前段でふれたように、聾の家族を気にしたり気にされたりという家族事情、聾唖者の家族の問題が最大の事柄で、いろいろ考えた。

家族は先天性の聾者というのも理由かもしれないし、酪農という家族全体で協力してやっている生業のためなのかもしれないが、いつも団結している。だが、特に母親は聞こえないがゆえに歌うということを追求する娘を理解できないという問題に直面し、とまどい否定もしてしまう。父親もとまどいもありながら親としての心のはざまで悩んでいるように描かれている。弟は姉だからか、深く考えてないからか、それとも現代人という若さなのか協力的だ。この映画は聾者にはあまり評判がよくない映画らしいし論争もあったようだが、それには様々な側面があるのだろう。フランス手話が全くよくできていないという理由もあるという。

私はこの映画により聾者の家族というものの現実的な一面を知り、少しだけ考えてみた。だが、そこで壁に当たったのはまず聾という言葉を差別用語としているような側面があるということ。つんぼはすでに差別用語らしいが、聾ですら差別用語とされようとしているという風潮だ。確かにつんぼを差別的に使う人はいた。昭和の時代。ただ軽蔑の目的で言う人もいれば、多分遺伝的なうつるという意味でわざと小声にして蔑む人もいた。だがそれですら一部で、私はそれをつんぼという言葉ではなく、差別的な思考を持っている人がいると思っていただけだった。聞くとつんぼはなかなか昔からある和語のようで、それ自体は単なる言葉だろう。

あるべきはずの能力がないと思う人には差別につながるのかもしれないが、その能力はなければ人として他の人に対して劣っているというわけではない。ただ聞こえないや見えない、話せないなどの分かりやすいものはどこかに差別心が生まれそうでもある。だが一見健常に見えても誰しもがなにかの能力が足りてない場合も多いものだ。それが瞬時に目立つか目立たないか、もし目立ったとしてもその中に差別心があるかどうかが問題だろう。だから例として書いたつんぼめくらおしなどの言葉は使う人によって違うだけ、そこに差別心があるかどうかだ。それはつんぼを聴覚障害といっても差別心があれば同じことだ。

そんなことを考えていたので友達とのメッセージのやりとりの中にそのことが出た。友達は"笠置シヅ子の買い物ブギを思い出しましたね~、あれカバーと原曲で歌詞が違うみたいなんですよね。"と教えてくれた。買い物ブギーは"わてほんまによういわんわ"でしょって認識だったが、細かく聞いたことはなかったので興味が湧き、それが時代なのだろうかとも考えた。そしてYouTubeでSP盤を検索して聞いてみれば、子供の頃にただ聞いていたただの古いブギでも、上のフレーズの記憶だけでもなく、歌詞と曲が入り混じった素晴らしい曲、肝心の部分は"おっさんおっさんおっさんおっさん、ダダダダダダダダダダダダ、おっさんおっさんおっさんおっさん、わてほんまによういわんわ"だ。さすがブギの女王。目から鱗。

上もそうだし蛇足となるが、去年の暮れの一時期に本屋に行けば、なぜか雑誌の目立つ位置に笠置シヅ子さんの雑誌のようなムックのようなものがたくさん並べてあり、急にブギウギブームが来たのかと思ったことがあった。その友達に聞けば現在彼女が主人公のドラマをやっているらしい。買い物ブギーも含め彼女の昭和のブギウギの曲はたくさん知っているし、東京ブギウギなんてどれだけの人のカバーがあるのか、映像に使われた楽曲で使用されたりリメイクされた曲はどれだけなのか、というレベルの人なのでドラマになるのも納得だ。そんなことがあり少し時間が過ぎたつい最近ある記事を目にした。

それは買い物ブギーからつんぼめくらが消えているということに関する考察の記事だった。その記事では上のYouTubeで聞いたSP盤には続きがあり、映画の挿入歌として使われているバージョンではめくらも使われていて、元は長さ的にSP盤には収まり切れない部分だったというものだ。私はその記事の著者のように知識もないし、経験もない、だからというわけではないが書いたことにすべて賛同できることもない、しかし概ね同様の考えだ。特に今読んだばかりの締めの文章は私が思っていることと同じで、上に書いたことでもある。やはりそれは普遍的なものだと思うし、だからこそ言葉だけを狩るのは意味のないことだと思っている。


映画を見ていて聾者の家族は聴者の娘や人々となにも変わりはないと感じる。私も街で聾唖者の人と出会うこともあるし、弱視者と出会うこともある。だが、そこに違和感は感じない。車いすの人もいれば、私のような頭のおかしい人もいる。それをただ異質と感じて差別する人もいるのも事実だ。だがそれは言葉のせいではない。今回のことを強く思ったのはやはり子供の頃に聞いていた音楽がきっかけだった。矢野顕子さんの在広東少年という歌で歌詞には"お前は歌う、私に向かって歌う、つんぼのわたしに"というものがあるのだが、その対比、聞こえない人に対しての歌、その前にある同様の目の見えない人に微笑むことがらを含め、そういった複雑な情緒を感じようとしていたのだ。残念ながら音源版では耳の壊れたわたしにと直されているが、それはそれとして本人が納得しているのならかまわない。

今回この映画を見て聾者のことを調べたときつんぼどころかろう自体にも差別用語としての烙印を押されるのが迫っていると知り大きな違和感を感じた。言葉が悪いのか差別が悪いのか。それは同じなのか。そんなことを思うのだ。私は別のものと考えるがそれは間違いなのだろうか。



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