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伝えるべきか、note - 最近何をしたか 1/23-2/2

伝えるべきか、note

去年少しの間だけだけど、自分の問題から一時noteを書かなくなって、また書きはじめた。そのとき書き始めたのがつぶやきだった、それからできるだけつぶやきを書くようにしている。
つぶやきはそのときに初めて書いたのだけど、続けている今では、つまらない日常でもあり詩の一部だったりもする。つぶやきは百四十文字という制限がありTwitterと同じだそう。そこそこ書けるという印象。そして書いていて気づいたことがある。それはnote公式と私との考え方の違い、文化の違いというべきなのかもしれない。つぶやきを書き、それを積み重ねていると今まで知らなかったバッジがあったことに気づく、毎日連続投稿というものだ。バッジのことは今まであまり深く考えたこともなく、どんなバッジを取得したのか気にしてなかったし、確かに毎日連続した投稿をしたことは一度もなかった。しかしここから思考の連鎖が始まる。書くのを再開してから連続投稿は三十日を越え、毎日連続投稿の三十日のバッジももらった。だけど、それ以降書いていてふと気づいた、書いた後に何日連続とか出るが、実際の日数よりも少ないのだ。増えない。そういうことを気にしていなかった私はそれに気づくまでに時間が掛かった。連続しているはずなのに数字が違う。疑問だが、そこはすぐに分かった。一か月以上経過したつぶやきを過去のものとして消去した。消去したらそれはないものとされ、そこで途切れてしまうということだ。存在しているものだけが連続投稿ということになる。だから過去のものを消せばそこで途切れ連続投稿にはならない。多分途切れなければ悪用されバッジを取得されることの防止とか、単に考え方の違いなんだろう。私としては投稿したものは投稿したものだし、実際何日間か達成しバッジをもらった事実もある。しかしそれが消えてしまうと終わってしまう。存在してた事実は継続とは認められないようだ。それならバッジの剥奪というか自動返還とかがあってもいいと思う。別にそれに大きな不満があるわけじゃない。考え方の違いなのだ。だから、削除しても過去の事実として継続という要望を出したとしても認められるとは思えない。しかし要望を出さないと何も伝わらない気もする。今はそこにいる。
もう一つ同様のことがある。つぶやきの文字制限とルビの問題だ。これもまた難しい。つぶやきの文字制限との整合性ということなのか。文化や考え方の違いなんだろう。それに悪用ももちろんだ。だがつぶやきの限られた文章内にルビを打ちたい気はある。これはぜひ常識的な範疇で緩和してほしいと思う。伝えるべきか、今そこに立っている。簡単なことを難しく考えているのか、そういう気もする。別に普通に伝えればいいのだろうな。


分からない人間

みんなに愛を押しつけることはできない、一対一で目の前にいる本当に大切な人にはそういう気持ちを伝えたいし、時には励まし共に歩きたい。愛のあふれている人はたくさんいる。私には分からないから。だからそういう人たちには幸せな世界を作ってもらいたい。目指す理想郷を作ってほしい。だから期待している。愛の分からぬ人間がフリーライダーになるなと叱られるのならそれはそれでいい。だが愛はあふれてるから大丈夫なはずさ。


わや - TWS

煮え湯を飲んでも呪いがあっても旅は続く。最後には本当に呪いかとも思いはじめたが、これはもう業であり性だね。満足してもしても奪われてしまう。その都度立ち上がるのももう疲れたよ。と、言いたいけど音楽がないと生きて行けないから。便利さを知るとまた立ち上がってしまうんだ。だから終わらない旅は続くし続いている。


アタマおかしい

私は頭がおかしいのかもしれないといつも思う。少し怖いときもある。これだってそうだ。書いたのは自分だけど読んでいるとおかしくなる。自画自賛して底なしの泥沼に飛び込みたくなるから。好きなんだ、この詩のようなもの。おかしいって少しは分かってる。実際は自分が生み出したものなので、そう褒められるようなものでもないって分かってるし、どっちに転んでも服を脱ぎ皮を剥ぎ、脂肪を掻き出し筋肉を引きちぎりたくもなる。それはおかしいよね。そう、アタマ。

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