熱病と忘却 - 最近何をしたか 2/19-3/1
熱病と忘却
この何日かゆううつだ、よくあるフラッシュバックに悩まされる。ハッと記憶が甦りある程度の時間をそれに支配されてしまい、集中が途切れ止まってしまう。その原因は分かってるし、それについては以前に文章として書いていて、いつかここにでも載せたいと思っている。しかしその実行はいつかは分からない。そうだ、呼び起こされた原因は書いたもの、そのものだ。
ふとその書いたものを目にしてしまい、また深い迷宮に落ちてしまった。そして普段の生活にはそれら以外の不安や考えもあり、総合して悪循環にはまってしまう。そうとすれば、ある人のことを思い出してしまう。顔を思い出したりはしないよ、と書いた瞬間に思い出してしまい、そして断絶の原因に思いをめぐらせ自己嫌悪やそのさまざまなシーン、そして言葉を思い出し悔いてしまう。対話が人間の意思疎通の絶対と思っている私だが、熱病によってそれを台無しにしてしまった。その人が望むものを分かっているはずなのに気づけず、自分の思いを知ってもらいたいを優先した。そしてそれを延々と繰り返し断絶した。不思議なもので断絶をしてしまえばその多くが見えてくる、全てとは言わないが多くのことが。冷静に見ればただその時の繰り返しがとても稚拙だと思え、恥ずかしく自分はどういう存在なのだろうとさえ思ってしまう。だからそのときは熱病だと思えるが、熱病だったとはいえその自己はおかしく、他の事柄も含め他人とのコミュニケーションを円滑にとれるような人間ではないと気づく。その後には、なくしてしまったなにかを求めても戻ってはこない、それを分かっているからこそ沈静化していた。しかしフラッシュバックが始まってしまえばまた沈静化まで時間はかかってしまう。
物事を忘れられないのは嫌ではないが、忘れられる人の強さを思う。自分の主義主張が変わったりした時に過去のことをすっかり忘れられる人は強い。変わったということすら憶えてない。そういう人にはなりたくはないのだけど、この迷宮にいるとそれをうらやましいとさえ思ってしまう。今回のことはきれい事ではないし、その対象者についてもう心情的に大きな潮流があるとは言わない。今でも忘れず記憶にいるのは悪いわけでもなくいいことであるとも思う。しかしその過程における自己の熱病による豹変の恥が責めてくる。そういう過去からの断罪の障害がないのだとすれば、忘れられる強い人はどれだけ楽なのだろうか、そしてその人の恥のレベルはどこから苦となるなのだろう。そんなことを考えていてもフラッシュバックはやってくる。このゆううつ。
無表情
感情の起伏は、決してはしたないことでもないのだけれど、それにより存在をより明確に浮き上がらせてしまう。どこにいてどうしてなにをする、しているのか重要なものはなんだろうか、とかね。感じてしまうと存在がより軽薄になってしまう。ただのぬけがら、それしかない無表情。
気分にね
行動をしないと、でも自信はない、しかし何らかをしないといけないから音楽に頼る。心が落ち着く。時には鼓舞してくれる。大いなる目的の為に選曲するわけじゃないけど、その時時の自身の起承転結くらいは意識はしている。行動が限られたりすれば、無意識にその気分に沿って考えてしまうのかも。私の中での大きなことといえば散歩とかね。
すり込み
復活がやってくれば皆しあわせになれるのだろうか。どこにでも存在するそれ自体の一部が叫ぶ。その声は聞こえてないはずが実際は影響していて、サブリミナル効果のように刷り込まれてゆく。だが欠落した記憶はそれすらもそのしっぽしか掴めずに、ただ過ぎてゆくだけ。
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