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赤い屋根

 幼児の僕は泣いていた。幼稚園に行くのが嫌だったのである。なぜ嫌だったかは思い出せない。親と離れ離れになるのが嫌だったのか、それとも幼稚園の生活が嫌だったのか、さて分からない。嫌だった記憶はあるが、それも今思えば月並みな嫌さだったのだろうと思われてくる。このように記憶がはっきりしないことの方が多いのだが、妙に鮮明に蘇ってくる情景もあるのである。

 ある日の僕は、幼い頭で効率について考えたようである。年少組の僕の教室は一階にあった。胸には黄色い名札を付けていた。リノリウムの廊下が続き、並んだ他の組の教室に沿って真っすぐに進むと、棟を変えて講堂のような部屋があるが、その継ぎ目を左へ折れるとトイレがあった。入ると右手に男児の小便器があり、左手に個室があり、男児も女児も同じトイレであった記憶である。それが果たして誤った記憶であるのか、幼稚園とはそのようなものであったのか判然とはしないが、まあそのように覚えている。教室で先生が「トイレに行きたい人?」と言い、何人かの園児が手を挙げた。そして教室を出て廊下を歩きながら、僕はどうせトイレでズボンとパンツを下すのなら、今ここで下して歩いていけば良いではないか、と思い、そのようにして手でズボンとパンツを引き下ろしながら、目線をその手元に落とし、難儀しながら歩いた。すると先生に見つかり「何してんのアンタ!」と大目玉を食らった。そこで記憶は途切れている。今思えば阿呆である。

 この頃の先生は怖かった。大人であるにも関わらず、児童に対する態度はほとんど癇癪に近かった。ままならぬ子供たちの言動に、弾けた爆竹のように喚きしらしたり泣き叫んだりしていた。それを目の当たりにした女児は泣き出し、ぼんやりしていた男児は呆気にとられた。音楽の時間、ピアニカを担当する子、小太鼓を叩く子、トライアングルにカスタネットなど色々いたが、楽譜を読めない僕たちは、記憶で勝負していたわけである。楽器などそうそう上手くできるものではない。それに何より当時はつまらなかった。すると先生は、小太鼓のバチをまだまだ小ぶりな児童に向かって投げつけたのであった。縦に回転して放たれるバチは僕の頭にカコンッと見事に命中。僕は火が付いたように泣いたが、その水気で滲んだ光景のなかで先生も泣いていた。

 運動場には赤い屋根の背の低い丸太小屋があって、窓を模した開口部に足をかけて屋根によくのぼった。頭上はクヌギが鬱蒼と覆っていた。赤い屋根は樹脂で出来ていて、そのざらついた質感はこの手に未だに覚えている。幼い日の記憶というのはどこにしまわれているのか知らないが、当時の先生の名前は未だにフルネームで覚えている。優しい先生もいればえげつない先生もいた。当時はただ溜まる一方の記憶であっても、今それを取り出して検分できるというのも面白いものである。

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