感覚を言語化するということ

以下のノートを書いているときに、身体にまつわる言語表現について、色々と思い浮かんだのでメモしておかんとす


私は20歳を過ぎて数年経つ頃に初めて口笛が吹けるようになった。
それまでは自分のことを「口笛が吹けない」類の人間だと思っていたが、口笛の上手い友人達が言葉を尽くしてコツを教えてくれたおかげで、ある時「ピー」と(間抜けな音ではあったが)出たのである。
一度音が出るようになると、口笛が吹けなかった頃の自分には戻れず、「口笛が吹ける(というより「口笛の音が出る」)」類の人間になってしまった。


別の話。体調不良になる前のことである。
仕事が終わった後や休日にはしばしば夫とキャッチボールをしていた。片手でボールをキャッチできるようになりたくて、それができる夫に色々と「掴むための感覚」を聞いて実践を繰り返し、できるようになった。


しかしながら、そういった経験の中でその都度その都度コツを自分の中に落とし込んでしまったせいか、「できない」→「できる」の過程で何を意識していたのか忘れてしまった。
それを再現することは非常に難易度が高い(言い換えると、再びできなくなった時に立ち返るべきよりどころが無い状態になってしまっているということである)。

少し話が大きくなるが、こういった「感覚の言語化」が必要となる場面・関係性は様々であるが、特に目立つものとして芸術・スポーツ分野におけるA師匠(指導者)とB弟子(選手)の関係性、医療におけるA医師とB患者の関係性などが挙げられよう。
なぜ言語表現が必要になるかというと、AとBとがコミュニケーションを通して状態や改善策を相互に共有し、協力し合うことでBの(よい)変容へ導くという目的が、こういった関係性に内在しているからである。

医療と言語化

特に私が今直面しているのは医療における身体感覚の言語化の難しさである。
検査から分かる数値、画像に見る異状等は客観的データとして医師・患者双方が一目で理解できるものであるのに対し、症状の質だとか困り感といったものはコミュニケーションによってのみ共有されるものである。
感覚と言語とが完全に一致するものではない以上、患者本人が多様な語彙の中から適切なものを選択し医師に伝達するほかない。

しかしながら、必ずしも自身の症状を説明し尽くせるような豊富な語彙を、患者が保有していない場合もある。私の場合、とにかく初めて経験する症状であるため、どのような言葉をもってして説明したらよいか分からずかなり困った。例えば「頭痛」「めまい」「倦怠感」といった症状の、さらに詳しい中身についてである。

そういった場合、医師の方から言語的補助(具体的な選択肢を提示するなど)があると患者の側としては助かる。

一方的な「聴取」スタイルではなく、双方の歩み寄りが必要だと強く感じる。

母語教育と言語化

そういえば「感覚を意識化し、言語化して相手に伝える」という営みは、「無意識領域にある母語(またはその運用)について意識化し、言語化して相手に伝える」という国語科教育の側面と類似している。

そのような点で考えると、先に述べたような関係性は教育(特に国語教育)におけるA教員とB生徒にも大いに当てはまる。母語による「国語科教育」が背負う役割として、「経験的・無意識・感覚的な言語運用を内省・意識化させ、より良い言語運用に向けたコツを生徒に掴ませる」というのが一つ挙げられるだろう。

このケースでも、教員側で言語的補助(体系的な文法事項との結びつけを行うなど)を行い、対話を重ねることで生徒が言語運用について内省・意識化できるようになるのかもしれない。

書きながら、私の修論の内容と重複する部分があるなと思った

追記

上記に関連して、以前、あるスピードスケート選手のコーチが「コツの言語化」について講演されているのを聴いた。
その方のインタビュー等も掲載されている大変興味深い書籍がある。伝統芸能、スポーツ、看護の3領域の事例について触れられている

生田久美子、北村勝朗編著『わざ言語ー感覚の共有を通しての「学び」へ』慶應義塾大学出版会 2011


まとまりが無いが今回はこんな感じで

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