医療における症状言語化の難しさ

慢性疲労症候群の症状が突如現れた時から、あちこち病院を回って自分の症状について説明する機会が多かった中で思ったことをメモ。

何にせよ、体調が悪いと訴えて色々と検査をしてもらっても目に見えた異常が全く無い。そのため、困り果てた医師に、諸症状について詳しい説明を求められるわけである。熱があることについては、目の前で体温計で測るなどして客観的に示すことができるが、「頭痛」とか「めまい」とか「だるさ」についてはどのように言語化したら良いのかがいまいちよく分からず、困ってしまうことが多々あった。

一つの指標としては、「程度」がある。
どの程度の困り感があるかということを1〜10の段階で示すとか、日常生活の様々な活動を強度順に並べて「〇〇することができる程度」「△△できない程度」で示すとか、そういったことはある程度伝えることができる。あと、どんな時に強く出現するか、とかもまあ何とか伝えられる。


ただ、難しいのは「質」の伝達である。
例えば、現在私が困っている一つの症状として「めまい」があるが、一般的には一括りに「めまい」といってもその中身は色々ある。「ぐるぐると回るような」、「ふわふわと浮くような」「海の底に沈み込んでいくような」「ふらふらとするような」とか、実に色々あるわけである。
私の場合は、「めまい」というよりも「めまいらしき症状」といった方が正確かもしれないが、「お寺の鐘がゴオーンと鳴って、その余韻が頭の中でワンワンワンと鳴っているような」「頭の中がぐらーっと/ぐるぐるするような」としか形容しようがないようなものである。視界そのものが回る感じではなく、頭の中がぐるぐる回っているような感じ。

病院の問診や診察で、「ぐるぐる」か「ふわふわ」か問われることがよくあるけれど、自分の症状がどれに当てはまるか、いまいちよく分からない。「ぐるぐる」寄りなのか「ふわふわ」寄りなのかも分からない。


ぐるぐる、とかふわふわとか、そういった形容の仕方は多くの臨床データの蓄積から導き出されたもので、ある程度医療者の中で共通認識ができているのであろう。共通認識がなされているような症状を訴える患者に対しては、相応の処置が可能である。

ただ、私のケースは医師も困ってしまうような形容の仕方であるらしく、なかなか症状の内実を分かってもらえない。自分としては、時に比喩なども使いながら言葉を尽くして説明しているつもりではいるが、どうしても伝えきれないモヤモヤ感が残る。恐らく医師も同様で、汲み取ろうと懸命になっているのに汲み取りきれない、と申し訳ない顔をされることがよくある。


あと、少し話は違うが余談。自分の体調については日々書き留めてはいるものの、その変動を明確に自分で理解することは非常に難しい。
例えば、昨日の体調と今日の体調、以前のひどい体調と現在のひどい体調とを比べることができない。相対的に捉えるのが難しいのである。朝起きて、「少しマシかも」と思っても、昨日の夜との比較でいえば「良いような気がする」かもしれないが、実は昨日の朝と同等の場合もある。体調がひどい時には物理的に動けなくて、「〇〇ならできる」みたいなことさえないので、「程度」の記録もままならない。

体調不良ビギナーなので、何かしら自分の体調をより客観的に捉えられるような指標をぼちぼち模索中である。



とにかく自分の体のことなのに自分で自分をよく理解できないもどかしさが常に付きまとっている。
身体に関する言語表現、特に感覚の言語化というものがいかに難しいか、この体調不良生活の中で痛感する場面が多い。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?