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【落選小説集】ボクんち

 妻が家を出て、そろそろ三週間になる。

 昨日は午後まで死んだように寝て、風呂に入り、スーパーへ買い出しに行くので精一杯だった。今日はかろうじてNHKの『趣味の園芸/やさいの時間』の頃には朝食を取り、洗濯機を二回まわしてマンションのバルコニーに干し、部屋に掃除機をかけ、トイレ・風呂・洗面所周りの気になる汚れを取り、スパゲティを茹で、カットトマト缶とおろしにんにくでソースをつくり、ベーコンと玉ねぎとしめじと一緒に炒めて食べた。玉ねぎで簡単にスープもつくった。うまかった。食器や調理器具を洗い、コーヒーを入れた。本を読もうか迷ったが、風に吹かれ、気持ちよさそうにしている洗濯物を眺めていると、ふと、アーちゃんのことを思い出した。僕は、久しぶりにアーちゃんのツイッターを眺めることにした。六月はじめの日曜日の午後だった。
 妻の明里、いや、アーちゃんのアカウントは「アカリンゴ(@une_pomme_rouge011)」だ。いっとき相互フォローをしていたが、今はしていない。アーちゃんからの申し出で解除した。だからタイムラインに流れることはなく、リストから見に行かなくてはならない。
「(@une_pomme_rouge011)発芽なう。」
 テキストに添付された画像には、アーちゃんらしき人物がいた。頭全体から顔にかけて花で覆われ、伏し目がちに表情をつくっていた。
「発芽なうって、何だよ」
 高級なファッション誌のグラフィックページのようだった。でも、顔はアーちゃんだった。化粧は自然だったが、光の当て方がプロの技術だった。データの補正も入っているだろう。何種類もの赤い花や葉を頭から生やし、それらに寄生されているように見えた。伏し目がちなアーちゃんは、ちょっとした菩薩のようにも見えた。微笑んでいるのかいないのか、曖昧な表情だった。目を伏せているけれど、閉じているのとは違う感じ。赤い花のグラデーションが妙に生々しく、変にムラムラするな、と思ったが、それは上半身が裸だったからだ。見えているのは肩から上だが、頭の花以外、なにもまとっていないように見えていたのだ。僕はしばらく、発芽したアーちゃんの写真を眺めていた。
「何だよー、アーちゃん。楽しそうだなー」
 赤い花を頭に載せたアーちゃんをひとしきり眺め、気が済んだところで洗濯物を取り込むためにタブレットの電源を落とした。
 東札幌にある僕らの住まいは、古い賃貸マンションの五階にある。バルコニーは西に向いていて、午後の陽射しがすごい。それでも大通方面の夜景や、藻岩山から手稲山に連なる稜線が美しく、僕らはとても気に入っていた。強い西陽は昼頃に干した洗濯物もよく乾かす。夏にはダッシュで帰宅すれば、温かいまま洗濯物を取り込めた。もっとも洗濯物を取り込んでいたのはアーちゃんであって、僕ではない。
 僕、吉田喜彦とアーちゃんは四歳差だ。アーちゃんが四歳年上で、かつてふたりが勤務していた広告制作会社の先輩と後輩だった。アーちゃんは、僕と出逢った会社を交際がスタートした頃に辞め、人材育成や経営コンサルティングを行う会社に転職した。交際二年で入籍した。僕が二十九歳で、アーちゃんは三十三歳だった。お互いの親に紹介し、正式に婚約した頃、のんびり部屋を探そうと不動産屋を巡っていたら、あれよあれよとこの部屋が見つかり、披露宴や入籍の前だったが一緒に住み始めた。
 三週間前に、アーちゃんが出ていくまでは。

 春の大型連休に入る少し前、アーちゃんから別居を切り出された。それはドラマチックなものではなく、古くなった冷蔵庫を買い替えようと思うの、どう思う? くらいの軽さだった。大事なことだけど、そう急ぐことでもなくて。ほら、最近のは省エネ達成率が上がって来てるし、みたいな。
 土曜日の夜、散歩ついでに坦々トマト麺を食べに行った。近所にある、僕らの気に入りの店だった。きのとやでエアリーチーズを買い、家に帰った。コーヒーを落とし、テレビをつけると『世界ふしぎ発見!』が始まろうとしていた。
 いつもの、特別ではないけれど、平和な週末の夜だった。
 ミステリーハンターの大冒険を眺めながら、コーヒーを口に含み、ふわふわのスフレを味わった。甘さとチーズの塩っぱさが絶妙なバランスで広がった瞬間、余韻を残しながら消えていく。
「ねえ、ヨシヒコくん」
「んー?」
「私さあ、ばあちゃんちに行こうと思うんだ」
「どっちのばあちゃん? 桑園? 千葉?」
「桑園」
「いつー?」
「ゴールデンウィーク中に荷物を片付けたりして、明けたあたりがいいかなーって」
 荷物?
「ごめん。俺、こんがらがってきた」
 そこでようやく、アーちゃんがバーボンのグラスをもっておらず、コーヒーを飲んでいることに気づいた。オフタイムはほぼアルコール漬けなアーちゃんでも、きちんと人と話をするときは、アルコールを摂取しないのだ。
「しばらく、ばあちゃんちで暮らそうと思うの」
「俺は?」
「ここで」
「別居ってこと?」
「そういう言い方もある」
 僕は自分の指先が、冷たくなっていくのを感じた。
「離婚とか?」
「……は、考えてない。でもヨシヒコくんがそうしたいなら、やむを得ないかもしれない」
 僕がそうしたいも、何も。そんなこと、そのとき、初めて考える羽目になったのだ。
 桑園に住むアーちゃんの祖母には何度か会ったことがある。恰幅がよく、つやつやとしたばあちゃんだった。ふたりで遊びに行くと、三日先までの二人分のおかずと、ジャムや蒸しパンなどの手作りの品をたっぷりと持たせてくれた。アーちゃんがまだ幼稚園の頃に夫を亡くし、以来、知事公館のそばにある一軒家で一人暮らしをしていた。息子がひとり、娘がふたりいる。アーちゃんは、ばあちゃんの下の娘の子どもだ。アーちゃんに家事全般を仕込んだ人でもある。ひと月くらい前に大腿骨を骨折し、入院していた。ばあちゃんの子どもたちは、退院後の彼女を一人暮らしさせるべきか迷っていた。退院後のプランはいくつも練られ、その中に僕らが桑園で同居する、というものもあった。
「ばあちゃんの退院が決まった?」
「転院するみたい」
「転院」
「あとひと月くらいで、リハビリ専門の病院に移るらしい。……多分」
「その後は?」
「未定。今のところ、ばあちゃんは頭がしっかりしてて、また家に帰りたいそうなんだけど、リハビリでどれくらい回復するかによって、施設に入居するのもあり得るみたいで」
 どうやら僕らが桑園で同居する、という話は、しばらく具体的にはならなさそうだった。
 アーちゃんはスプーンでエアリーチーズをすくい、口に運んだ。次に発する言葉を選んでいるようだった。
「私さ」
 アーちゃんは手元の菓子をスプーンで突いていた。
「今、リカバリが必要なんだと思うんだよね」
「リカバリ」
 ばあちゃんにはリハビリ、アーちゃんにはリカバリ。僕には、アーちゃんがくらったダメージが想像できなかった。リカバリが必要なくらい、いったい彼女は何を負ったというのだろう。第一、リカバリという言葉は果たして人に使っていいものだろうか。パソコンのシステム復旧に対して使うんじゃないか?
「それが、ここを出てくってこと?」
「……うん。考えてみたんだけど、今は、しばらくばあちゃんちで留守番をしているのがグッドアイデアな気がして」
 テレビでは、ヒトシくん人形を巡る攻防が繰り広げられていた。ベストアンサーは一体何なのか、まったく思い浮かばなかった、僕はテレビを消し、ラジオをつけた。会話の邪魔にならない程度に、それでいて沈黙が気づまりにならない程度に、音量を絞った。
 僕は、サーバーに残ったコーヒーをふたりのカップに注いだ。アーちゃんは声を出さず、ありがと、と唇だけ動かした。
「……俺が何か、気づかないうちにやらかした、ということなんだろうか」
 アーちゃんはスプーンを咥えて僕を見ていた。言葉を選んでいるようすが伝わってきた。僕を傷つけないが、嘘やごまかしなく伝える表現は何かを模索しているのだろう。あるいは、確実にダメージを与える言葉を選んでいるのかもしれない。
「誰が、とか、何が、とかいう判断がつかないくらい、私、今、参ってる。自分がどうしたいか、うまく考えられないんだ。……ちょっとひとりになりたい」
 大げさなくらいの深いため息に続き、アーちゃんの目から水晶の玉のような涙が転がり落ちた。
 僕は仕事の後輩だったこともあり、アーちゃんの判断の的確さをよく知っていた。どうすればチームがより活性化できるのか、自分がどう振舞えば他人が気持ちよく、自発的に動くのか。アーちゃんはそのプランを立て、行動し、他人によい影響を与えられる人だった。
 それでも、言われるまで、まったくアーちゃんのそんな状態に気づかなかった。いや、言われてもよくわからない。疲れた様子は時折あれど、ストレス社会を生きる世代としては、常識の範囲内に見えた。このところ、ふたりの間にはささやかな小競り合いもなかった。
 確かに恋愛初期の浮かれた幸福感はなくなっていた。でもこれは、小さな幸せを無意識に享受しているのだ、僕はそう思っていた。いや、そんなことすら意識していなかった。僕はただひたすらに、日々を生きているだけだった。
 アーちゃんは僕の横で微かな嗚咽を混ぜながら、涙と鼻水を流し続けた。そんな状態でも努めて平静を装うアーちゃんを見ていると、心がひどくざわついた。
「今のアーちゃんは、ひとりになりたいんだな」
 アーちゃんは頷いた。涙は果てしなく溢れ続けていた。
 僕には了承する以外に選択肢がなかった。

 アーちゃんが家を出てからの二週間は、散々だった。アーちゃんがいた頃、二日おきには交換されていたシーツと枕カバーは、二度目の日曜日まで交換されることなく、僕の等身大の疲弊したオーラがうっすらプリントされていた。使い続けたバスタオルからは納豆の匂いがした。ゴミ収集車の背中を見送ること数回、髪の毛が排水溝につまり、泣きながら割りばしでつまんで捨てた。キッチンのシンクには汚れた食器のタワーがそびえ立った。尻を丸出しにしたまま、買い置きのトイレットペーパーすらなくなっていると気づいたときの絶望感は、いったいどう例えたらいいんだろう。
 ひどい二週間を過ごし、二度目の土曜日の夜から、僕の家事スイッチが入った。
 まずは洗濯、そして掃除だった。
 ジーンズのポケットに鼻をかんだティシュを入れっぱなしにしていて、それなりにひどい目にあったものの、清潔な寝具にくるまれて眠る幸福を取り戻した。汚れた食器タワーを、湯と洗剤で崩していった。鈍い銀色のシンクが見えたときには、腹の底から喜びが湧いてきた。シンク下の生ゴミ受けは絶望的な状態で思わずえずいたが、汚物を除去したときの爽快感といったら!
 その日はスーパーで買った半額弁当を夕食にしたが、おかずは皿に移し、ご飯は茶碗によそった。インスタントだったが、みそ汁もつくった。食事のあとには、ほうじ茶も飲んだ。
 思えば三十三歳にして初の一人暮らしだった。
 僕は、やればできるコ、だったのかもしれない。あるいはアーちゃんの家事がすこぶる合理的だったのか。手元に残されたアーちゃん作の「家事ノート」とインターネット上に散らばる記事が、僕の先生になった。
 アーちゃんがいた頃から、炊飯器でご飯を炊くことは教わり、できていた。みそ汁の作り方はノートに記してもらった上で、出ていく前に教わった。小鍋に具を入れ、煮立ったら煮干しの粉を大さじ一杯入れ、味噌を溶かすだけというワイルドな作り方だったが、五臓六腑に染み渡るとはこのことか、と思うほどうまかった。自分で作るようになると、慎重に味わい、手順と味のバランスに思いを馳せるようになった。
 包丁を握るのも怖かったが、勇気を出して持ってみると、何のことはない。アーちゃんがいた頃から下ごしらえの手伝いをさせられていたので、材料を手にしたら、すっと手が勝手に動いて、材料が切れていた。僕は鼻歌交じりでゴボウをささがきにするのが好きになった。魚を触るのはまだ怖く、スーパーで焼き魚や煮魚の総菜パックを買っていたが、野菜に触れるのは心が清浄になるようだったし、肉を切るときには高揚し、鼻息が荒くなった。大根と鶏もも肉をめんつゆで煮たり、目にした野菜を片っ端から刻み、塩を振って浅漬けにするなど、週末の楽しいイベントになった。
 アーちゃんが出ていく前に家事ノートに沿っておさらいをしたおかげで、三週間目からはきちんと実践できるようになった。野菜不足にならないように、ブロッコリーを固めに茹で、冷凍庫で保存した。心ときめくような出来栄えの品は、写真を撮ってインスタグラムにアップした。青空と洗濯物、美人さんの野菜たち。三時のおやつにはランチョンマットを敷き、買ってきたスイーツを皿に置き、添えるカップも吟味した。
 僕はおそらく、逆境をバネに、新しい喜びを手に入れたのだ。

「ヨシヒコ氏?」
 スーパーで麻婆豆腐の素を品定めしていると、聞き覚えのある声が聞こえた。振り返ると、濃紺のピンストライプのタイトなスーツを着た、華やかな女性が立っていた。
 アーちゃんの勤務先の、めみさんだった。恵という名前なので、めみ。肩のあたりにバターロールみたいな巻き毛をつくり、そのまま夜の高級店に出られそうな雰囲気をまとっていた。めみさんは僕らの家の近所に住み、以前はよく我が家にも遊びに来ていたものだった。
「お久しぶりー! アーちゃんと一緒?」
「いや、今、おばあちゃんちに行ってるんだ」
 真実とは微妙に異なるが、まあ事実だ。
 めみさんは、そうなんだーと大きくうなずいた。女性らしい、大らかな表情だった。
「アーちゃん、体調戻ったの?」
 僕はその問いに戸惑ったが、
「うん、元気だよ」
 と応えた。そう告げるしかなかった。
「いやー、アーちゃんが辞めちゃってから、おうちに顔出したいなーって思ってたんだけど。アーちゃん不在の影響が大きくて、今、めちゃめちゃ忙しくて、連絡もできなかったんだー」
 アーちゃん、会社を辞めてたのか? 聞いてない。
「私が書いてあげた社長のパワハラを証明する書類、ハロワに提出したのかな? 役に立ったんならいいけど」
 めみさんは勢いよく自分が言いたいことをしゃべり倒した上で、麻婆豆腐の素は丸美屋かユウキがいいと薦め、元気に手を振り、去って行った。僕は混乱の中、めみさんをかろうじて笑顔で見送り、ずらりと並ぶ麻婆豆腐の素の中からクックドゥの四川風をレジかごに入れた。
 スーパーからの帰り道、夕暮れに向かって歩いた。
 アーちゃんが会社を辞めていた。おそらく三月末日付けで。
 何も聞かされていなかった。夫婦なのに。
 僕らは同じくらいの給料で、今のところは家賃・光熱費を僕が持ち、食費や消耗品費をアーちゃんが払っていた。もしアーちゃんが妊娠し、仕事を辞めるなんてことになったら、そのときは僕の給料で全額賄えるよう、世帯収入の相場から見て、比較的安めのマンションに住むことを決めたのだ。結婚後、僕もふたりが出逢った会社を辞めて、今は別のデザイン会社にいる。その転職の際、辞めようと思っていること、新しい会社を見つけたこと、面接に行き、合格したことは、その都度伝えた。アーちゃんは、力みもせず、呆れもせず、フラットに応援してくれた。次に進む時機が来たんじゃない? 楽しく仕事ができるのが一番だよ、うまく行くといいね、と。
 パワハラを受けていて、夫に打ち明けない妻がいるだろうか。ハローワークになにがしかの書類を提出するほど、深刻な状態だったのだ。大通のビル街に沈もうとする夕焼けを見るともなしに眺め、ことの異常さに混乱したが、だんだん夕焼けが麻婆色に見え、家路を急いだ。
 帰宅後に作った麻婆豆腐は、クックドゥだったが、うまかった。炊きたての飯も、イカときゅうりの和え物も、卵スープもうまかった。イタリアンカラー中華と名付け、やっぱり写真を撮り、インスタにアップした。

 七月に入ると、札幌の街はビアガーデンだらけになった。去年までは毎週末にアーちゃんと出掛け、僕は酒が飲めないけれど、野外飲みを愉しんだ。アーちゃんがいないと気が向かず、今年はまだ、行っていない。
「(@une_pomme_rouge011)ビアガーなう。」
 アーちゃんのツイッターを眺めると、やはりビアガーデンに行っていた。しかも平日に。それも昼間に!
 前に見たところまでタイムラインを一気に遡ると、「つばらつばらで珈琲汁粉なう。夏仕様。」「非庶民的な料理屋で羊肉なう。ウマス! ちなみに焼尻のサフォーク。プレ・サレ!」「ルスツなう。ウェーブスインガー3回乗ったよ♪ 午後からもおかわり予定。」と呟きまくっていた。
 ウェーブスインガーがわからなかったので、ルスツリゾートのホームページを見た。そこには「サーカス気分の空中ブランコ♪」と書いてあった。写真を眺めながら、それに乗り込んだ体感をイメージしてみした。三半規管がもっさりと麻痺していった。
 さらには「じだらくのあと。」とコメントを付けた写真をアップしていた。布団が敷かれ、周囲を漫画や本が取り囲んでいた。弁当の空き容器のようなものと、チューハイの缶が転がっているのも見える。「じだらくのかたち。」と呟かれた写真では、布団は上げられており、布団部分を型抜きしたように、物が散らかっていた。「じだらく完了。余は満足じゃ。」という呟きでは、同じアングルの写真で、すっかり片付けられた様子だった。
「何なの? この自堕落三部作は」
 僕は呆れてディスプレイに語りかけた。僕の知っているアーちゃんはしつらいに気を配り、タオルの畳み方ひとつにもこだわりがある人だった。インテリアに神経質になることなく、むしろ緩さのバランスを大切にしていた。整ってはいるけれど、緊張感はない、というのが彼女の家事芸術だった。
 呟きの言葉に添えられた写真には、アーちゃんの姿はなかったが、僕にはその表情が見えるようだった。子どもみたいに無邪気で、あっけらかんとした笑顔。平日昼間のビアガーデンでは、ふたつのジョッキの向こうに、男が座っているのが見えた。顔はわからないが、ガタイのいい男なのは明らかだった。さすがに不愉快だった。
 アーちゃんには男ともだちが多い。むしろ女ともだちが少ない。めみさんのような仲良しはいるが、男と女で距離のとり方を変えているように見受けられた。男ともだちといるほうが、アーちゃんはくつろいでいるように見えた。彼らとは結婚後も飲みに行ったりしていた。何人かは僕も会わせてもらい、SNSをフォローし合い、時には彼らのパートナーを交えて、楽しい時間を共有するような仲になった。しかし僕と相性が悪い者もいた。アーちゃんはそれを認めた上で、彼らと会うことを止めなかった。正直、嫌だったが、会うのを止めるようには伝えなかった。夫という立場は、妻の人間関係にどれくらい介入していいものか、判断がつかなかったからだ。
 いや。僕には自信がなかったのだった。気に食わない奴らとの交友を禁じたところで、アーちゃんを満たし続けられる気がしなかった。アーちゃんが僕の意思を受け入れるかどうかはわからない。影でコソコソするタイプではないから、交友を止めないと宣言するかもしれないし、ヨシヒコくんがそう願うなら、そうしましょうと受け入れるかもしれない。それでも、僕の発言がアーちゃんから何かを奪い取り、僕らから何かを損ないかねない、そう感じると何も言えなかった。
 ツイートを眺めるのを止め、家事タスクに没頭した。完了させると、僕はコンビニに行き、唐揚げと缶ビールを買った。日が沈み、赤から薄黄緑を挟み、紺に至るグラデーションの空と山並み、そして大通方面の夜景を眺めながら、バルコニーでビールを飲んでみた。でも酒に弱い僕は、たった一缶のビールさえ飲み干すことができなかった。限界を感じ、飲むのを止め、残りをシンクに流した。アーちゃんが、
「そんなことしたら、お酒の神様に怒られるよ!」
 と笑い、僕の代わりに気持ち良く飲み干してくれる様子を思い浮かべながら。
 別居後、アーちゃんと会わなかったわけではない。僕らは行動範囲が近かったから、偶然会うことも少なくなかった。そんなとき、時間が許せばカフェや食事に行った。まるで別居などしていないみたいに。映画館で合えば終映後に感想を語り合ったりした。それでも帰る場所は別々で、彼女の背中を見ていると、自分が今、どの時間軸にいるのかわからなくなった。僕らは結婚などしておらず、一緒に住んでいた記憶は、僕の夢でしかなかったのではないか、と。

「アンタたち、ホントにうまくいってるの?」
 母は訝しげに言った。
 お盆にはふたりの実家の墓参りに行った。どちらも札幌市内だ。
 アーちゃんの実家では、義父母ともアーちゃんが桑園に住んでいることは承知していた。だが、それは単身赴任のようなニュアンスで、僕の仕事の都合や、ばあちゃんの家の維持という、義務からの別居であるという認識だった。
「どう? おうちのこと、不便してない?」
 義母は「ごめんねぇ」と前置きをし、僕らの状況を訊いてきた。
「……だいぶ慣れてきました。やってみると楽しいです」
 僕がそう応えると、義母は義父を見て、
「聴いたぁ?」
 と、話を振った。義父は僕を見て、
「ニューエイジだ」
 とニヤリと笑った。アーちゃんは澄ましたまま、そこにいた。僕にとっては不自然極まりない情景だったが、穏やかではあった。
 しかし、僕の母はそうではなかった。
 墓参りを済ませ、僕は実家に泊まったが、アーちゃんは桑園に帰った。ふたりが別居していることは、僕の両親には伝えていない。僕の意思で、そうしている。
 母と嫁であるアーちゃんとの仲は悪くない。アーちゃんは誰の懐にも、ひょい、と入り込む才能があった。僕の家族・親族との関わりを楽しんでいるようだったし、話題が豊富でさりげない気配りができるアーちゃんを、父母はとても気に入っていた。当然、母もアーちゃんの人間性を認め、気に入っていたが、嫁としての条件についてはシビアだった。
 母の不満は、孫の不在だった。
 僕らが結婚する際、母の唯一の懸念は、アーちゃんが僕より四歳年上だという点だった。アーちゃんは入籍時、既に三十三歳で、いわゆる「マルコウ」まであと二年という年齢だった。妊娠を望む健康な男女が、避妊をせずに性交し、一年だか二年だか経っても妊娠しない場合、不妊である、と定義づけられるのらしい。アーちゃんはこの十月で三十八歳になる。立派な高齢不妊だと言えた。
「吉田家の墓が、とか、そういう話じゃないのよ」
 父が寝室に引き上げた後、ぼんやりテレビを見ていた僕に、母はお茶と大島まんじゅうを供しながら言った。
「明里ちゃんみたいにお仕事ができる人は、自分の年齢を忘れちゃうものなのよ。確かに明里ちゃんは綺麗だし、歳より若く見えるわよ。それでも身体の中では着実に老化が始まっているの。今、タレントさんなんかも四十歳過ぎてから子どもを持とうとして、産んだりもするけれど、そんなに簡単なもんじゃないわ」
 母はアーちゃんに子どもの話をしたことはない。否、ないはずだ。その分、母は僕にプレッシャーをかけ続ける。
 母さん、今、俺たちそれどころじゃないんだよ。実はアーちゃんが家を出てっちゃったんだ。もちろん、そんなこと母には言えない。ことが大きくなり過ぎてしまう。僕はのらりくらりと応じた。
「アンタに問題があるの?」
「えっ、知らない」
 矛先がこちらに向けられたのは初めてだった。
「検査は?」
「検査って何?」
「不妊の検査よ」
「俺はしてない」
「お母さん、お金出して上げるから、ちょっと診てもらって来なさいよ」
 僕は慌てた。隠していたAVを見つけられたような気恥ずかしさだった。
「お母さん、手遅れになって欲しくないのよ。明里ちゃんにキャリアを優先させて、子どもについて後悔して欲しくないの。……子どもがいなくても幸せに暮らしている人は、そりゃいるわよ。でもやっぱり、欲しかったのに、健康だったのに間に合わなかった、あのとき、そうしていればって、そう思ってほしくないの」
 母さん、アーちゃんは会社も辞めちゃったんだよ。会社辞めて、平日にルスツに行って、ぐるぐる廻る空中ブランコに乗りまくって、男と昼間からビアガーデンに行くような暮らしをしてるんだよ。もちろん、そんなこと母には言えない。僕は曖昧な声を出して返事の代わりにする。
「今、赤ちゃんをつくる医療はすごく発達してるの。昔みたいなリスクもほとんどないの。自然に作るのと同じよ。状況によっていろんな方法があるし、お母さん、ある程度ならお金のサポートもしてあげられるから、そろそろ本気でお話し合いなさいな」
 僕は大島まんじゅうを口いっぱいに頬張りながら、お茶を流し込み、既に布団が敷かれている、もとの自分の部屋に逃げた。
「ちゃんとふたりで話し合うのよ!」
 母はとどめの一発を僕の背中にぶつけた。

 一緒に住み始めた頃、僕らは抱き合ってばかりいた。休日には昼まで布団の中にいて、顔を見合わせては笑い、触れ合っては笑い、抱きしめ合っては笑っていた。西陽に照らされたアーちゃんはキレイで、ずっと眺めていたかった。東南アジアの眠ってる仏像みたいだった。尊いものが、自ら発光するような。機嫌のいいイルカみたいな生命力。身体のラインを構成する流線形は、生き物であるのと同時に、大地のような力強さがあった。僕は小人になって、アーちゃんの身体の隅々を探索したかった。アーちゃんが発する光はよい匂いがした。かすかな花の匂いのような甘さ。いつまでも頬ずりしながら嗅いでいたかった。
 休日にひとり、片付けられた部屋で、大の字になって横になり、発光し、よい匂いを放つアーちゃんを妄想で再現することを試みた。でもダメだった。発光するアーちゃんは僕の妄想を超えていた。
 最後にアーちゃんと抱き合ったのはいつだったのだろう。
 僕らは少しずつ、その身体を離していった。明日のことを考えて、夜更かしを控えたり、休日における行楽のタスクを片付けたり。抱き合うことがエネルギーチャージではなく、消耗になっていた。
 最後に交わったのは、いつだ?
 天井を凝視しながら記憶を辿っていった。思い出せなかった。愕然とした。
 母さん、俺たち、そもそも子どもをつくるようなことをしなくなっちゃったんだ。最後にセックスしたのがいつか、もう思い出せないくらいに。もちろん、そんなこと母には言えない。
 僕は本当にアーちゃんと暮らしていたのだろうか。その事実すら怪しくなってきた。僕は考えるのを止め、冷蔵庫からコーラを取り出し、一気に飲み干した。バルコニーに出て、洗濯物の乾き具合を確認し、取り込むことにした。夏の風の中に、微かに朽ちていく葉の匂いがした。

「(@une_pomme_rouge011)空なう。」
 アーちゃんの呟きは、街を見下ろす風景が多くなった。どうやらJRタワーの展望台に上っているらしかった。このところ毎日、あるいは日に何度も上がっているらしく、青空があれば、夕景、夜景のこともあった。
「(@une_pomme_rouge011)意識は眠いけど、身体が元気だから、かろうじてここにいる。」
 意味がさっぱりわからないなりに、アーちゃんの内面が静かになってきていることが伝わった。意識は眠いけど、身体は元気。アーちゃんらしいな、と懐かしかった。
 アーちゃんによれば、人は大きく変革するとき、直前に強烈な眠気を催すのらしかった。思考の飽和の果ての、解放。
 しばらくアーちゃんの「空なう。」は続いた。赤く光る石狩湾から濃い青に向かってグラデーションを描く空、白い羊の群れが泳ぐような雲を浮かべた青空、眼下の街が霧に包まれているような曇天、街明かりが水のレンズに屈折しているような雨天。
 僕はふとしたときにアーちゃんの空を眺めながら、自分の日常を生きた。会社に行き、常備菜を詰めた弁当を食い、誰かと当たり障りない話をした。僕のインスタをフォローしている同僚と、レシピの交換をし、器やカトラリーのデザインテイストの話をした。帰宅し、一息つくと、アーちゃんの呟きに添えられた空を眺めた。淡々と、というよりは粛々と日々は過ぎた。
「(@une_pomme_rouge011)空だん。機体がバラバラになるかと思うほど揺れまくり! なまら怖かった! LCCだから?」
 九月に入り、初めての日曜日。アーちゃんの呟く空が変わった。LCC? どこ行っちゃってるの?
「(@une_pomme_rouge011)成田なう。祝・初成田。なんか仙台空港みたいだな! 気のせいか! 第3ターミナルのプレハブ感、どう?」
「どうもこうもねえ!」
 僕はディスプレイに向かって吠えた。これまで笑ってやり過ごせていたのは、札幌近郊で日帰りだったからだ。確かに東京は日帰り可能な場所だ。でも、プライベートで行くなら泊まりだろう。アーちゃんはおそらく無職だ。長期滞在もあり得る。こんなとき、もしうちの親から緊急招集がかかったら、どうするつもりなんだ? 何て言やいいんだ? あー、アーちゃんは東京に行っちゃったみたいなんだよね。帰り? んー、いつかな? わかんない。肩をすくめてそう答える自分のバカっ面を想像し、途方に暮れた。
 アーちゃんは東京駅までリムジンバスで行き、その途中にディズニーリゾートを見つけて喜んだ。東京駅に到着するとホテルに荷物を預け、立ち食いそば屋で本格的なインドカレーを食っていた。京橋駅から銀座線に乗り込み、外苑前駅で降り、東京ヤクルトスワローズのオフィシャルグッズショップに立ち寄った。
 スワローズ? 野球? アーちゃんが?
「(@une_pomme_rouge011)じんぐーなう!」
 添えられた画像には、くすんだピンクの古い建物が写っていた。明治神宮野球場。
 僕もアーちゃんも、野球観戦という文化を持たない。一度、ファイターズの野球観戦チケットをもらい、札幌ドームへ行ったことはあった。バックネット裏で、網が邪魔だなと思ったり、ファウルボールが飛び込んで来たりするのは困ったものだと思ったが、ごぼうチップスはうまかったし、見よう見まねで声援を送ったりしたのは楽しかった。アーちゃんはビールを浴びるように飲んでご機嫌だった。でも、それっきりだった。選手の名前もよく知らない。せいぜい、新庄、稲葉、中田、大谷くらいだ。アーちゃんはファウルボールとホームランの差もよくわかっていなかった。僕は何度か説明してみたが、アーちゃんは興味がないので、結局最後まで首を傾げたままだった。
 そんなアーちゃんが、神宮球場?
「(@une_pomme_rouge011)なにこのパワスポ感! 聖地! まさに聖地!」
 浮かれたアーちゃんの呟きは続いた。添えられた写真には昼の名残りを残しながら暮れかけた空と、高層ビル、そして球場全体が見渡せた。でもパワスポ感は伝わってこなかった。アーちゃんは左手に生ビールのカップを持ち、スコアボードの方向に高く掲げた。観戦の呟きは続いた。夕焼け空に、たくさんのビニール傘が開かれていた。そんな画像が度々上がった。試合が終わり、アーちゃんはグラウンドギリギリまで降り、金網越しに球団マスコットに触った。
「(@une_pomme_rouge011)初じんぐーは、引き分け。つば九郎先生のモフ指に、じーん。野球はさっぱりわからないけど面白かったし、ビールは4杯飲んだし、我が人生に悔いはない。食いはあるが悔いはないのだ!」
 こうなってくると、もうさっぱりわからなかった。
 怒りを超えて呆れ果てた。僕は、アーちゃんのツイートを見るのをやめ、禊の気分でシャワーを浴びた。
 結局、アーちゃんは試合観戦後、麻布十番までタクシーに乗り込み、待ち合わせた友だち(多分、男だ)とジンギスカンを食い(地元で食えよ)、ホテルに戻って大浴場で汗を流して満足した。翌日はホテル近くの、朝食が食べられる有名なカフェに行き(ずりぃなあ)、国立新美術館へ行き(俺も観たかったやつじゃん!)、新橋のナポリタンとハンバーグの老舗でランチにした(俺も食いてえ!)。浅草橋まで足を延ばして手芸用品店で品揃えに小躍りし、いくつかの品を購入後、総武線で飯田橋に行き、お胎内巡りもビックリの真っ暗なバーで待ち合わせをし(これもまた男だ)、カクテルを二杯引っ掛けて、ブルーノートでライブ鑑賞をした(俺も行きてぇ!)。
 アーちゃんは失業&シングル生活を満喫していた。社会人としての責任を放棄し、妻としての立場も保留にし、いい加減で、天真爛漫に東京旅行を満喫しているアーちゃんに、腹立たしさが溢れ出て来た。
 てめー、何やってんだと怒りに満ちる反面、生存していて、日々を楽しんでいることに安堵していた。そして、嫉妬していた。俺だって仕事を放って、東京でも、どこでも、行きてーよ!
 東京旅行の最終日、アーちゃんは深川不動堂で護摩行を見学し、下町を散策し、深川丼を食べ、清澄白河でコーヒーを飲んで、夕方の早いうちには羽田空港にいた。今回は成田から入って、羽田から出るフライトにしたらしい。きっと紅に染まる関東平野の眺めを満喫する便に乗るんだろう。僕との旅行でもそうだった。
 羽田空港はアーちゃんにとってテーマパークだ。アーちゃんは新宿アカシアでロールキャベツと帆立クリームコロッケをテイクアウトし、展望ラウンジへ移動して、持ち込んだビールの缶を開けた。左手に缶ビールを持ち、飛行機が見えるように写真を取ってツイートした。空はまだ明るく、早めの夕食、といった風情だった。おそらく一人だ。楽しそうだった。
 その後のツイートに、僕は息を呑んだ。
 夕暮れの駐機場に全日空機が並んでいる風景だった。誘導灯が満点の星のようにきらめいていた。
「(@une_pomme_rouge011)確信した。これは、恋だ。」
 一瞬、音が聞こえなくなり、世界から色が消えた。血液は僕の身体を流れるのを止め、一瞬の後、逆流したみたいだった。
 意味がわからない。
 僕の妻は、別居を申し出て、布団の中でコンビニ弁当を食らい、チューハイの缶を転がし、ルスツで遊び呆けて、平日昼間に男とビアガーデンへ行き、高級料理店で焼尻島の貴重な羊肉を食らい、展望台で空ばかり眺めて、野球のルールもわからないのに、飛行機にのって東京くんだりまで行き、神宮球場でビールを飲み、応援傘を振り回し、してまた札幌で食えばいいものを、麻布十番だかという場所に行き、ジンギスカンを食い、……いやもう、何やってんの?
 とどめは、恋を確信しやがった。
 俺の妻だろうが!
 僕は猛然と風呂場へ行き、バスタブに湯を張った。バスタブが満たされるまで、暴れだしたい衝動を抑えつつ、布団を敷き、タイマーが鳴るまでの間、枕に顔を押し付けて喚き散らした。タイマーが鳴り、止めに起き上がる自分が奇妙に冷静だな、と思った。俺の怒りなんて、こんなもんなんだろうか。湯船に浸かり、時折潜った。潜りながら喚いた。何度か息継ぎで顔を出し、自分が泣いていることに気づいた。手洟をかみ、また潜った。
「心がささくれたら、お風呂に入ればいい」
 そう教えてくれたのは、他ならぬ、アーちゃんだった。

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