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パン


 う、カビ臭い。 朝ご飯のチーズののったパンは、一口目で独特のにおいをかすかに放った。
 チーズ特有のにおいが強すぎたのであればいいんだけど。
 いや。
 わたしが買ったのはスーパーで一番安いものだったはずだ。特別なにおいなんてあるはずがない。
 と思いつつも、せっかく口に入れたものだし、気のせいだったかもしれないと自己暗示しながら
 簡単にかんで、ごくりと飲み込んだ。
 

 実は昨日から知っていた。そのパンにカビが生えていることを。
 今日はチーズをのせてレンジに入れる前に、カビの部分はちゃんととったはずなのに。
 なんでせっかくの休みの朝からこんな思いをしなければならないんだ。

 
 このパンを買ったのは先週だった。
感染症が流行っていて数日後には店がぜんぶ閉まるかもしれないと聞いて、 仕事の後すぐにスーパーに出かけた。
 スーパーの棚には野菜も肉もヨーグルトもパンも、いろんな種類のものが並んでいたが、
わたしはいつものように、選択肢の少なさに困っていた。
 この国に来て6か月で私がおいしいと確認できた商品はまだ数えられるほどしかない。
 例えば1週間分の食材を買っておく必要があるとして、今わたしが思いつく商品しか買わなかったら、 この一週間でこれまで好きだったものも完全に食べ飽きてしまうであろうことは、目に見えている。
 だからと言って、試したことのないものを買って、それが口に合わなかった場合、1週間それしか食べられないなんて、ひどすぎる。
 そんなことを考えながらスーパーの中をぐるぐる歩き、結局いつもの、わたしにとってはおなじみのそのパンと、少し多めの野菜を買って店をでたのだ。


 4月が近いロシアは夜でも、もうそれほど寒くはなかった。
 私がここに来た時は、外で大量のスイカとメロンが売られていた。
 それからすぐに冷たい秋が来て、そして気付けば綿のしっかり入った大きなコートを着て、雪が踏み固められてよく滑る真っ白な道の上を歩いていた。
 

 来た瞬間からこの国は容赦がなかった。この国に来て二日、右も左も分からないのに授業は始まり、わたしは「先生」だった。
 毎日息を切れしながら授業をこなして、やっと慣れた頃に突然わたしの日本語クラスに通い始める新メンバーに驚かされ、クラスに通うのをやめてしまう子にたくさん反省させられた。
 母国語さえもきちんと理解できていない自分に嫌気がさしたり、学生たちとの関係の築き方に迷ったりしながら、どうにか迎えた3月、雪解けの季節。

 

 わたしは、たっぷりチーズののったそのパンをもう一口食べた。
 今日は一日外に出ないと決めている。
 まぶしく輝く朝日が窓からこちらに差し込んでくる。今日もきれいな朝だ。
 二口目は、意外とカビのにおいがまだしてこない。
 やっぱりパンはチーズをのせるとおいしいな。なんて悠長に考えている私がいる。
  
 きっと食後のコーヒーを飲み終わるころには、カビのにおいのことなんて忘れているんだろう。

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