このタイミングでカナダ その1
どうも。皆さまSTAY HOME期間はいかがお過ごしで。
自分はというとカナダはトロントに滞在し、4ヶ月が経とうとしているところである。
外出も殆どしておらずただひたすらにホームステイ先でステイホーム。勉強はしていると言えど、こんなにも時間がありLAZYな生活をしているのは後にも先にもこの機会だけだろう。ってかそうであってほしい。
この未曾有の事態の中に海外にいるということ、また、時間があり過ぎて昔の出来事に想いを馳せることが多くなったのもあり、思い出の供養の意も込めて、これらを残す作業をしよう思いnoteを始めた次第である。
文章力については小3の頃の読書感想文で割と良い賞を取ったのがピークであり、それからかなりの年月が経っている為、読みにくかったり壊れた日本語を使用している可能性がある。それについては寛容に見守っていてほしい。
<まずは>
ごめんなさい、書き出したら止まらなくなりこの記事ではワーホリのことに行き着きませんでした。あしからず。
自分は現在30歳、ワーキングホリデーVISAにてカナダはトロントに滞在している。
ワーキングホリデーVISAというのは簡単に言えば、この国で働いてもいいよ的なVISAである。有効期間は1年であり、国によって条件を満たせば2年滞在できたりする。国によって申請できる年齢に制限があり、カナダは31歳の誕生日までに申請したら良かった気がする。
留学や海外渡航者向けの掲示板を見ると、ワーホリはどうだとか、意味がないとかたくさんのdisも目にする。
正直、自分も30という年齢を迎えてワーホリに行くのは色んな意味でヤバいと思ってるし、あながちその気持ちも分からなくはない。大学時代に休学して1年間留学したり、最初から海外の学校に入学する人達をみたらそれが正解!素晴らしい選択!と言いたくなる。
実際に自分の友達には海外留学に行った友達も多い。1年間卒業は遅れるが、それ以上に得たもの多いはず。自分がろくに大学の講義も行かずにバイトに明け暮れてる頃、彼らは偉大な経験をしている。
しかし自分がここに来れたのは遅かれ早かれこのタイミングしかなかったのだ。特に金銭面。
その崇高な人達とそもそも自分の生活を比べるのがナンセンスだということも年が経つにつれて気が付いてきた。上を見ても下を見てもしょうがなく、自分が生きやすいように都合よく比べたりそうでなかったりするのがベストだと。
そう言い聞かせて29歳の夏に、会社を辞めて海外に行こうと!なんとなしに決めたのである。
<一瞬海外留学を考えた話>
ワーキングホリデーという単語を初めて聞いたのは大学3年の頃、仲の良かった友達がこぞって4年生に進級出来ず、留年してしまった時である。(自分はそのタイミングでは留年は免れたものの、結局大学院の入学試験に落ちてしまい、タイミングをずらして大学4年を二周してしまっている)
話を戻し、その大学4年の夏頃、留年した仲の良かった友達2人がオーストラリアに行ったとい話を耳にした。Facebookを見ると彼らのページは語学学校で出会ったであろう海外の友達にタグ付けされた写真で埋め尽くされており、楽しんでいるのが確認できた。
研究室で院試の勉強をしながら、"自分も金が有れば行きてえなあ"と思ってたのを思い出す。
また、大学4年(1回目)の頃、研究室には同期数名と、2個上の先輩だが留年を2回かました4年生がいた、Aさん。元気かな。連絡してみるか。
彼は3年次にヨーロッパの方に留学に行き、次の年では履歴書の欄が足りないほどに資格を取ったという当時の自分からしたら異色の経歴の持ち主だった。当然就活もスーパースムーズに行き、途中から自分の院試の勉強の邪魔をするばかりであった。Aさんからたくさん海外の話を聞いたが、その時も"いいなあ、お金があれば行きたいなあ"という感想だった。
そうして時間が経つうちに、大学院の入学試験に落ちる。4年の1月。もちろん就活もしていない。卒業は出来ますかと先生に聞くと、
"卒業は出来るけどお勧めしない。君の能力だと就活に必要なステータスが、新卒である事しかない。もう一年いたほうが絶対良い。この連休で考えて答えを出してくれhahaha"
大学ごと燃やしてやろうかと思った🔥。
そうこうした絶望の最中、Aさんが歩み寄り話かけてきた。慰めの言葉をかけてくれるのかとと思いきや、
"院試落ちたらしいじゃんか、人生終わったなあ笑、海外行くしかねえぞもう。窓口行ってみなhaha"
クソボンボン野郎、もう一回留年しろ!と思ったが、時間が経ってもその言葉が頭から離れず、気がついたら留学窓口で資料をもらい、留学経験者にLINEで相談していた。ワーホリ経験者にも。
そしてその勢いで"俺は海外に行くぜ!見てな!"的な気分になり、アガりっぱなしのまま帰省し、両親に院試に落ちたこと、海外留学したいからお金を貸してくれとクソゴミのような話を持ちかけた。
なんとか母親を説得でき、楽勝!俺の海外生活が始まるぜいとウキウキしていた。
父親は優しいから多分承認してくれるし、後はどうやって英語勉強しようかなーぐらいで考えていた。
仕事から帰宅した父親は母親からその話を聞き、自分は呼び出された。いくらもらえるかなあ〜とスキップしながら父親の元に行くと
"そんな大金はらえるか、自分が勉強しなかったのが悪いだろ?無理やり卒業して働くか、もう一年大学通え!どちらかだ!"
明らかにいつもの温厚なあつよし(父親)の形相は面影はそこになかった。ああ、これは絶対にダメなヤツなんだなと痛感した。
説得の余地はもうないと敗戦宣言を全細胞に訴えかけ
"もう一年大学通わせてください"
とお願いしたのだった。
無能で非常識な馬鹿大学生の渡航計画は、わずか2日後に儚く幕を閉じたのである。
なんで分かってくれないんだと思う反面、まあそうだよなという気持ちも強くなり、次の日には留学関係の資料を葬った。そこまで後悔も無かったし、後々考えるとそんなに気持ちが強くなかったのかもしれない。
その後大学がある県に戻り、教授の部屋に行く。
"留学も考えましたがやはりもう一度四年生やります"
と伝えた。
"そんな急な話親さんもOK出してくれるはずがないですよ笑。もしも海外とか興味あったりするなら、私が請け負っている君がなれなかった院生向けの授業があるからそれに参加しなさい。今年は国際学会が台湾で開催されますし、それに出ることができます。留年の穴を埋めると良い経験になりますよhaha"
なんだクソ野郎と思いつつも、
"なんでもします!なんでも手伝います!その講義参加させてください"
とお願いし、まんまと教授の手下と化し、自分がなれなかった大学院生と共にその講義を受け、国際学会で発表し(正確に言えば共同発表者のパソコンの電源入れただけ)、割と良い賞をもらうことができた。ちなみにこの国際学会で行った台湾が自分の初海外となった。
0を1にするのはダメたけど、"1を100にするのはOK"
とその辺のネットで拾った都合の良い言葉を盾に履歴書にそのことをべらぼうに書いてやった。
そうして完成した履歴書を以って、就職活動をするのである。
写真1 国際学会の風景
写真2 国際学会の時のなんかの施設の受付の人と
次は社会人になった話を書きます。
会社辞めたくなった話諸々。多分つまらん。
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