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エッセイ| 経験だけでモノを語るな!

経験でしかものを言えなくなる人生は寂しい。

「折々のことば」に載っていた、翻訳家の田口俊樹さんの言葉。中学時代、島崎藤村の『破戒』を読んで、読書しないと知ることができないことが数多くあることに衝撃を受けたという。
 
 どんな人でも、何でも体験できるわけではない。どんなに経験豊富な人でも、その経験には限りがある。
 もちろん実体験したことは大きな財産なのだが、自分の経験だけをもとに何でも語ることは相手へのリスペクトに欠ける行為である。
 
 田口さんの翻訳でロアルド・ダール「あなたに似た人」を読んだことがある。ダールの世界を私自身が経験することはこれから先もないと思うが、凝り固まった思考がほぐされたような気がした。

読書でしか経験できないこと

 私自身が実生活の中では経験したことがないが、読書の中で経験したことに、獄中生活や殺人がある。
 ドストエフスキーの「死の家の記録」や「罪と罰」を読んだことは、大きな財産である。
 財産と言っても、カネ儲けができたり仕事に直接的に資するものがあったわけではない。しかしながら、ニュースで時折報道される殺人事件を聞いて「理解が全くできない」ということはなくなった。

 単純に「人を殺してはいけません」と声高に叫ぶことは、何も言っていないに等しい。そんなことは、人を殺したことがなくても、誰でも知っている。
 私は人を実際に殺したことはないが、人を殺す瞬間がどれほど恐ろしいものか、ということは「罪と罰」の中で経験した。本を読みながら、目の前に血が飛び散った。恐怖のあまり、思わず本から目を離さざるを得なかった。罪と罰を読んだことがある人なら人を殺すことはできないだろう。

 心がスーッとするとか、幸せな気分に浸るためだけに読書するわけではない。場合によっては、心に傷がついたり、トラウマになることがある。実際に経験したら生きていけないようなことも、読書の中では経験することができる。
 読書は娯楽や気晴らしのためにだけあるわけではない。もちろん、気晴らしのたまに読むことがあってもいいのだが。

語学だって自分の経験を語るだけでは物足りない。

黒田龍之助
「外国語の水曜日」
現代書館

 スラブ系言語学者の黒田龍之助さんの著書「外国語の水曜日」(現代書館、p93~p103)に、イタリア語をはじめて学ぶ場面が描かれている。

 黒田さんを含め、仲間三人とイタリア語をはじめて学ぶことになった。簡単な単語や文法を学んだあと、イタリア語の先生とイタリア語会話をすることになった。

 三人とも日本人なのだが、最初に「あなたは日本人ですか?」と問われた黒田さんの同僚は「いいえ」と答えた。
 先生も含め、みんな彼女が間違ったと思った。そして先生はもう一度彼女に「あなたは日本人ですか?」と問うた。
またしても彼女は「いいえ」と答えた。
 次に先生は「お名前は?」と尋ねると彼女は「わたしの名前はパラオ」ですと答えた。ここでみんな、彼女がイタリア人になりすまそうとしていることに気がついた。
 続いて黒田さんも、「あなたは日本人ですか?」と問われると、「いいえ」と答えた。
「お名前は?」
「マリオです」
三人目も同僚は「わたしはフランス人です。名前はジャンです」と答えた。

 学校で英語その他の言語を学ぶとき、自己紹介の仕方を覚えるのだが、リアルの自分のことについて語っていると、表現の幅が狭くなる。もちろん、自分のことを正確に伝える練習も必要だが、フィクションも大切である。
 自分が経験しないことについても語れるようになることは理想なのではないだろうか?
 自分が学校の先生だったとしても、警察官になったり、野球選手になったつもりで語ってみるということも楽しいだろう。

 田口俊樹さんがどのような文脈で「経験でしかものを言えない人生は寂しい」と言ったのかは分からないが、読書を通して間接的に学んだことであれ、それを人に伝えることで自分自身の表現の幅や他人に対する想像力が育まれていくように思う。


結び

 経験には、大きく分けると、自分自身の「実体験」と、伝聞による「間接経験」がある。
 どちらか一方に偏った考え方をするより、両方大切にしていきたいものだ。


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