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エッセイ | 哲学への誘惑


 哲学というものに関心をもったのは、小学生1年生か2年生の頃。「どんなに頑張っても、どうせ死んでしまう」ということに気がついたとき。

 もちろん、逆上がりができるようになったり、バタフライを泳げるようになったときには微笑んだこともある。「三角形の外角はそれととなり合わない2つの内角の和に等しいこと」に気がついたときは嬉しかったこともある。

 しかし、そういう喜びのあとには、「どうせ死んでしまう」という言葉が脳裏に浮かんだ。バタフライがどんなにはやく泳げるようになっても、自分よりはやく泳げる人がいる。数学の定理を理解しても、それはすでに他の人によって発見されている。別に自分が存在していなくてもいいじゃないかという思いになった。

 小学生当時に哲学という言葉は知らなかったが、哲学的な思考はいつも頭の中にありつづけている。
 人によっては、弱気とか無駄だとか思うのだろうけれども、今になっても切実な問題である。

 高校生になって、現代社会の倫理分野で、生や死について考える哲学というものがあるのを知った。受験には関係のない科目だったからさほど本腰を入れて勉強しなかったが、大学に入ったら勉強してみたいな、と思った。

 しかし、大学に入ってから教養科目で哲学を履修したが、なにか違和感を覚えた。こういうことを知りたいわけではないんだよな、と思って幻滅した。

 それから暫く哲学とは距離をおいていたが、自分の知りたいことは、やはり経済学や法学、科学ではなくて「哲学的ななにか」だと思って哲学書を読むようになった。


 哲学の入門書的なものを読んでから気がついたのは、「哲学は知識ではない」ということ。「哲学それ自体は学問ではない」ということ。

 もちろん、何も考えるベースとなるものがなければ思考することはできない。哲学することはできない。最初のうちは、ソクラテスとかカントとか、偉大な哲学者が遺した著作を読まねばならない。ギリシア哲学は、素人でも比較的専門用語は少なく、対話形式で書かれているから読みやすい。しかし、カントとなるとそうはいかない。原書(もちろん翻訳だが)を直接読もうとしても歯が立たない。専門用語を入門書や専門書を読みながら基本的なことを覚えたあとでないと、読み進めることはできない。

 しかし、専門用語を覚えて、カントならカントを理解できたとしても、それは「読解」であって哲学ではない。本来の目的は哲学することを通じて、みずからの疑問に答えを与えること。あるいは、解決の糸口を見つけること。一歩でも真理に近づくこと。


 「哲学する」というと、なにか高尚なことのように思う人が多い。難しいことを理解できる知識豊富な人のような錯覚。あるいは、哲学すると心が豊かになるという誤解。

 日々笑って、食べて、そこそこの収入があって、悩みらしい悩みがないならば、哲学なんていらない。いずれ死ぬということに対して、切実な悩みがないのならば。

 お墓をどうしようかとか、年金がもらえるだろうか、家族が死んだら、、、ということは、みんな経済的な悩みであって、哲学的な悩みではない。

 古今東西の哲学者の学説に詳しいだけならば、それは「哲学学者」であって「哲学者」ではない。

 ニーチェ、カント、キルケゴール、スピノザ、デカルトなど、ありとあらゆる哲学者の著作を渉猟しても、それだけでは哲学者ではない。ただの読書家だ。

 他の人にとってはどうでもよい悩みだったとしても、自分の解決できない問題について、つねに考えつづけられる人。それを「哲学者」というのだろう。

 つねに悩みつづけることができるというのが、哲学者の資質。仕事に打ち込み遣り甲斐を感じるとか、家族の幸せを維持することに必死になる人には、おそらく哲学者の資質はない。幸せになるために哲学するのではない。あえて不幸を選びとることができる人。そういう人種は何%くらいいるだろう?

 哲学って、不幸なときのほうが理解できるんだ。つらいとき、なんにもすがるものがないとき。哲学書の意味が体で理解できる。
 幸せに平凡に暮らせているとき、「幸せとはなにか?」「自分がいつか死ぬ」なんて考える必要がない。

 なにか教養を身につけるとか、賢くなりたいと思うときに、哲学なんかするものではない。
 体をもって不幸を感じる瞬間。それが哲学するのに最もふさわしいときである。
 
 それでも哲学したいですか?



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