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折々のことば(9/23)

この前の秋分の日の「折々のことば」。
そのまま引用します。


加虐、しいたげる側の顔というものは存在しません。加虐には顔がないのです

       金時鐘(キムシジョン)


 差別というものは、遠巻きにするだけで相手に直接かかわらず、相手を対象としてすら見ないでいる中でますます執拗なものになってゆくと、詩人は言う。差別する者はそれゆえ、自分では差別しているとすら思わない。差別を被る側は逆に、そういう形で「離れ小島」のような場所に押し込められ、歪に塞いでゆくほかないのだと。講演「善意の素顔」(1997年)から。


 この記事はたまたま目に入ったもの。1997年の講演ということだから、まだTwitter(現X)もなかった頃の言葉だ。

 しかし、「顔がない」という表現はまるで、SNS上の差別に関する言及のように聞こえる。

 差別・憎しみという感情の始まりは、具体的な出来事が出発点になるが、徐々に観念化してゆく。
 次のようなステップをたどる。


「あの行為は気に入らない」

「あいつは気に入らない」

「あいつのやること・なすこと、すべてか気に入らない」

「存在そのものごと消えてほしい」


 ④のように、存在そのものが消えてほしいという状態になると、相手の死を望むようになる。
 もちろん、相手に直接手を加えて実際に殺すまでに至ることは稀だが、紛れもなく「殺意」がある。

 ④の段階まで至ったあなたは、相手がどんなに謝ろうが、いくらカネを積まれようが絶対に許すことはない。それなのにあなたは、「心からの謝罪」を求めつづける。

 最初に攻撃を加えて来たのは向こうの方であり、あなたにはまったく非が思い込んでいる。しかし、相手からすれば、攻撃してきたのはあなたかもしれない。往々にして、被害者だと主張する側が、実は最初に加害行為をおこなっているときも多い。

 相手に何か不愉快なことをされたとき、「ひどい目にあった」と言う前に、自らの行動を振り返り、自分自身に非がなかったのかどうか、一度考えてみたほうがよい。


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