「どういう記事を読みたいの?」という発想で記事を書いてはいない。
つれづれなるままに
基本的には、そのときに書きたいことを書けると思ったときに書く。日記であれ、SNSへの投稿であれ変わらない。
誰かに知ってもらいたい、あるいは、共感してもらいたいと強く願わなくても、日記に書くより、SNSに書いておきたい!と思う人もいる。
他人との交流を求めずに、SNSへの投稿することには意味がない!、という御仁がいるが私にはその人の気持ちがよくわからない。
日記とブログ
コメントなどの反応がまったくなかったとしても、日記に書いたことがまったく読まれる可能性がないのに対して、SNSに投稿したことは、遠い未来のことであれ、誰かが読む可能性はある。また、他者を意識した文章というものは、自分しか読まない日記とは違い、多少人の目に触れることを意識しているぶん、支離滅裂な言葉にはなりにくい。
他人の楽しみなど副次的なもの
私は私がそのときに書きたいことを書くのであって、人を楽しませることを第一に考えているわけではない。自分の書いたことが、結果として人を楽しませたり、勉強になることがあるかもしれないが、それは副次的なことだ。
かと言って、まったく他人のことを考えていないわけではない。
記事によって対象は異なる
テーマによっては、より多くの人に読んでもらいたいときもある。そういうときは、普通の中学生が理解できるくらいの文章を書く。
語学に関心がある人に読んでもらいたいことは、英語で書く。これは平均的な高校生のレベルより少し高めにして書く。とは言え高卒程度のレベルである。翻訳ソフトを使ってまで読んでほしいとは思っていない。そもそも翻訳ソフトを使う人は読者の対象としていない。
前に私が書いた官能小説のようなものが読みたいから、エロ記事を増やせ!的なことを書く人がいるが、だったら過去作を読んでください、としか言いようがない。正直に言えば、迷惑千万なコメントだ。
アイデアの浮かび方は気まぐれ
アイデアというものは、1日何個も浮かぶときもあれば、まったく何も思い浮かばないときもある。計画的にコンスタントにひらめくものではない。
しかし自分の頭に何も思い浮かばなくても、なるべく記事を書くようにしている。そのようなときは、他人の記事をいつも以上に読む。自分だったら、どう書くだろうか?、と考えながら読む。そうやって読むと、そのときに自分の今書きたいことが思い浮かんだりする。
書くことがなくても「書きたい!」と思うこともある。そういうときは他人の力を借りればよい。
目的などなくていい
SNSの目的を明確した方がいいか?
別に否定はしないが、明確にすると、それ以外のことが目に入らなくなる。
収益化を目的にすれば、カネにならないことは喜びではなくなる。
スキやPVを伸ばしたいなら、自分のホントに書きたいことが書けなくなるかもしれない。
noteを何らかの「手段」として考えてもよいが、記事を書くことや読むこと自体を「目的」とした方が楽しいような気がする。
矛盾はあるだろう
今回は論理的一貫性を考えずに書いてみた。言いたい放題のことを書くのもいいかな、なんてね。
だいたい直感が先にあって、論理は直感を正当化するための詭弁に過ぎないことがある。その意味では「非論理」も清潔感のある正直な言葉である。
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#あれこれ
#あえてまとめない文章
#スキしてみて
#イラスト
記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします