見出し画像

人生後半戦

 さきほど、上達の探求さんの記事を読みました。
 今日もたくさん投稿したのですが、午後はまだ投稿していないな、なんて思いながら。

 読者の需要を考えながら記事を書くのが「プロ」、自己満足のために書くのが「アマ」。この定義で言うと、私は限りなく「アマ」に近い。

 もっとも、読者の需要(どんな記事が読まれやすいのか)を完全に無視しているわけではありません。しかし、読まれやすい記事は本当に自分が心の底から書きたいものか?と問われたら、「イエス」とは言いにくい。

 私の場合、なんとなくnoteをはじめて、なんとなく今もつづいているというのが実際のところですが、最初の頃もそして今も、英語をはじめとする語学に親しんでいる人とつながりたい、という気持ちが初心でした。


 私の記事に関して言えば(私だけに限ったことではないかもしれませんが)、読まれやすいのは、「noteに関する記事」「俳句・短歌」「(取り留めない)エッセイ」などの類いです。どの記事もそれなりに一生懸命書いているつもりですが、すごく時間をかけて書いた「英語の記事」や「哲学の記事」「数学の記事」などは、ビュー数・スキ数を見ても、あまり積極的には読まれていません。


 読んでくださった方には、どんな記事だったとしても同じようなリスペクトの気持ちを忘れてはならない、と思いつつ、「俳句・短歌」の記事以外はまったく読んでいただけない方には、ちょっと距離を感じています。


 こういったことは、おそらく私だけに限ったことではないでしょう。あなたが本当の本当に気持ちを込めて書いた記事が読まれず、ほとんど思い付きに近いような単なる「つぶやき」にビュー数・スキが集まるだけだったら、少し悲しくなりませんか?


 noteをはじめて、二年弱ですが、最初に思い描いたものとは違うな、という違和感は誰にでもあるでしょう?
 気になったフォローの方の記事を、「処女作」(初投稿)から読んでみることがあります。
 最初から今まで初心を貫いて、詩なら詩をひたすら書きつづけている方、最初は日本語で日記を書いていて途中から「英語のエッセイ」にかわった方、心理学の記事を書いていて後に「季節の移り変わり」の記事にかわった人。


 noteをつづけていく中で、心境の変化というものは当然あることですし、それでよいと思っています。
 しかしながら、初心を忘れて、読者のニーズにばかり合わせていると、次第に自分の書きたいことが書けなくなってしまう。あるいは、投稿が苦しみに変わってしまう、ということがあります。


 一番最初のときにフォローしていた人やフォロワーは、今とはだいぶ異なります。最初から残っている人も少しいますが、毎日少しずつ入れかわっていきます。それは、自分の心境の変化や、読者の需要を多少なりとも考えたことに起因するのでしょう。


 明日は誕生日。明らかに人生後半戦に入っていくわけですが、ちゃんとした死期がわかっているわけではないのに(わけではないから?)、これだけは書き残しておきたい、なんていう気持ちになります。本当に書きたいことが何であるのか、自分でもよく把握しないままに。


 自分の書きたいことという軸をブラさず、かつ、読者の需要に応える。簡潔にいうとそういうことかもしれないが、それはそれで中途半端なような気もしてしまいます。
 書きたいことを書くだけ書いて、そのあとに、読者の需要がついてきてくれたらいいな、なんていう「ムシのいいこと」を書いて、擱筆します😊。


#noteのつづけ方
#振り返りnote
#エッセイ
#誕生日
#人生後半戦

記事を読んで頂き、ありがとうございます。お気持ちにお応えられるように、つとめて参ります。今後ともよろしくお願いいたします