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羊の瞞し 第2章 NOSTALGICな羊(6)

前話目次

(6)最後のノクターン


 美和と宗佑は、協議の末、正式に離婚した。美和が家を出て、僅か五日後のことだ。離婚届を手に、荷物整理を兼ね一時的に帰ってきた美和は、妙にサバサバしていた。
 その晩、家族三人で淡々と話し合った。不思議と誰も感情的にならず、事務的な意見交換だけだ。
 美和の決意は固かった。慰謝料も財産分与もなし。もちろん、二十歳になり、就職も決まった響への養育費はなし。もっとも、学費は全額美和が支払ったし、これから通勤に必須となる自動車も購入した。その上、万が一の為に、数ヶ月分の生活費は響の口座に振り込んである。
 また、健康保険や光熱費、宗佑の車のローン、携帯電話の引落とし口座の切替など、面倒な事務手続きも全て美和が行い、あとはただ、美和が出て行くだけ。それが美和の望んだ条件だった。
 宗佑は、受け入れるしか選択肢がない。調停になるともっと大変だし、財産分与のことを考えると宗佑には有り難い条件なのだ。いや、客観的に見ると、一方的に宗佑に有利な条件だ。もう、美和を翻意させることは厳しいだろう。それに、無理にそれを行なおうとすると、それこそ調停に持ち込まれるだけだ。
 離婚は結婚よりエネルギーを消費する、とよく耳にするが、宗佑と美和の離婚は呆気ない程に簡潔だった。

 結婚は運命の赤い糸が……なんて比喩もよく聞くが、次第にその糸がグチャグチャにもつれ、複雑に絡まった時、それをほどく作業は困難だろう。縺れた糸は、なるべく切らないように、慎重に根気よく解かないといけないのだ。
 しかし、どうしても綺麗に解くことが出来ず、次に進む為にも、やむを得ず切り落とす決断が必要なこともある。それが離婚なのかもしれない。なるほど、そう考えると、離婚はそこに至るまでに大変な労力と気力を消費させるだろう。
 ところが、これは美和と宗佑には当てはまらなかったようだ。二人の赤い糸は、いきなり美和により断ち切られたのだ。
 何とか解こうとする努力もなく……いや、違う。元よりグチャグチャに縺れた箇所は、美和にしか見えていなかったのだろう。しかも、切り取られた後の絡まった部分も、宗佑には見せずに捨てたのだ。
 おそらく宗佑は、最後の最後まで、離婚に至るまでの美和の思考について、ほんの一欠片すら理解出来なかったのだろう。そして、美和の意図と感情の所在は何処であれ、結果的には響も巻き添えで捨てられたようなものだ。

 その日の夜、美和は工房へ降りて行きピアノを弾いた。
「これが弾き納めね」と呟きながら選んだ曲は、ショパンのノクターン20番だ。小学生の頃の響が毎日のように演奏をせがみ、魅了された思い出の曲。
 しかし、いつしか美和はほとんどピアノを弾かなくなり、響へのレッスンも自然と消滅した。響も、専門学校へ通うようになってから、ピアノを弾かなくなっていた。
 この日のノクターンは、かつての演奏とは程遠い出来映えだった。ブランクの所為か、指が縺れ、所々音が抜けた。いや、美和は家でこそ弾かなくなったものの、仕事として、職場でピアノを弾く機会は日常的にあるはずだ。だから、ブランクではない。
 しかし、内面から込み上げてくるような感情の投影が全く感じられず、ただ無機質に弾いているだけの演奏だ。ミスタッチも多く、コントロールの効かないフィンガリングは、演奏の技能的な問題ではなく、長年放置されているピアノの状態に起因するのかもしれない。
 かつては、宗佑により、常に最善のコンディションを保っていたピアノも、奏者が寄り付かなくなり調整されなくなっていた。実際、音もかなり狂っていた。おそらく、タッチ感の均一性も失っているのだろう。
 階下から聞こえる拙いピアノを聴きながら、「この音は宗佑の音でも美和の音でもない」と響は思った。同時に、響が大好きだった音も、夫婦の共同作業の象徴に感じていたノクターンも、もう二度と聴けないのだと悟った。



 卒業式の日の夜、響の携帯に美和から着信があった。響は、躊躇った挙句、電話に出なかった。こちらからは、何度掛けても出てくれなかったのに、自分の都合で掛けてくる厚かましさに嫌悪した。
 もう、法的に親子ではないのだし、未成年でもない。親の養育義務からも外れている。それに、美和自身が家族であることを放棄したのだ。ようやく響も現実を受け止め、過去を断ち切り、未来に目を向けていたところだ。今更何も聞きたくない。話すことなんてないのだ。
 すると、数分後に今度はメールが届いた。当時の携帯メールには250文字までという制限があった為、長い文面は途中で分割されて送られた来た。

「響、卒業おめでとう。直接お祝いが出来なくて、ごめんなさい。でも、響の卒業はお母さんも本当に嬉しく思っています。お父さんとは別れることになったけど、響のことは何時までも大切な息子だと思っています。もう側には居てあげられなくなったけど、響も子どもじゃないんだし、お母さんは何も心配していません。それでも、もしこの先困難なことに出くわしたら、何時でもお母さんで良かったら気軽に相談してください。お父さんは、調律師としては天才です。今でも、とても尊敬しています。お父さんの作る音が大好きでした。(続)」

「響も、きっと素晴らしい調律師になれると信じています。お父さんと違い、響はピアノも弾けるんだし、小さい時からお父さんのお手伝いをしてきたもんね。いつか響の調整したピアノを弾いてみたいです。その日を夢見て、お母さんは一人で生きていきます。ダメな母親でごめんね。お父さんと響を置いて逃げるなんて、最低な母親だよね。でも、響にはいつか分かってもらえると思う。あ、別に分かってくれなんて言ってないよ。ごめんなさい、話逸れちゃったね。(続)」

 響は、おそらく母が3通目を入力しているであろう間に、大急ぎでメールアドレスを変更した。
 あと何通あるのか分からないし、知りたくもない。これ以上、読みたくなかったのだ。途中まで読んでしまったことを後悔した。美和の言い訳や泣き言なんて、今更どうでもいいのだ。怒りとやるせなさに打ちひしがれながら、響は勝手に溢れ出る涙をそっと拭った。
 母が何故出て行ったのかは、響にも何となく分かる気がした。それならそれで母の人生を尊重しようと自分に言い聞かせ、何とか前を向いて行こうと思ってる時に、過去を振り返るのも、今後に向けての下手な期待や励ましなんてものも、一切聞きたくなかったのだ。全ての干渉は、最終的には母の自己弁護に収束するだろう。
 響は、目を通したばかりの二通のメールを削除し、翌日には携帯電話のキャリアを変更し番号を変えた。

 まもなく、社会人として調律師人生がスタートする。携帯電話も含め、何もかもリセットするには相応しいタイミングだ……響は、そう自分に言い聞かせながら、母との関係もリセットすることにした。

(次へ)



本日分を持ちまして、第2章『NOSTALGICな羊』は終了です。
次回から、第3章に入ります。

楽器店に就職した響が、いよいよ社会人として、新米の調律師として歩み始めます。

ちなみに、第3章は全章通じて最長、約42,000文字です。
専門用語も多いので、読者離れも覚悟しています。
ご無理のない範囲でお付き合いいただけますと嬉しいです🙇‍♀️