見出し画像

羊の瞞し 第3章 REALISTICな羊(1)

前話目次

(1)羊は歩き出す


 国内最大手の楽器メーカー『KAYAMA社』の特約店である興和楽器は、県内最大のフロア面積を誇る総合楽器店だ。ピアノはもちろん、管弦楽器やLM楽器など様々な楽器を販売し、それらの教則本や周辺アクセサリー、専門書まで、総合的な販売業務だけでも全国有数の大型ショップとして周知されている。
 また、ピアノ調律をはじめとした楽器のメンテナンス業務、貸しスタジオや音楽教室の運営、楽器レンタル、防音室の施工、音楽ホールの経営など、物品販売以外のコンテンツも充実しており、「音楽のコンビニエンスストア」という創業コンセプトに見合う大型楽器店として全国的に名を馳せている。

 響が入社した年、興和楽器の新卒採用は、本店だけで二十名近くもいた。不景気に傾きつつある世情にあった楽器店としては、例外的な大人数と言えよう。だが、その大半は事務職や営業、店頭販売員などの採用で非正規雇用も数名含まれていた。
 しかも、技術者の新人は僅か五名しかいなかった。そのうち三名が管楽器のリペアマン、一人はLM楽器のリペアマン……ピアノ調律師の採用は、響だけだった。
 正社員の調律師として採用された響だが、研修期間中から挫折と屈辱の連続だった。中でも、最も期待外れだったのは、「ピアノ調律師」とは名ばかりで、ほとんどピアノに触れることがなかったことだ。もちろん、直ぐに外回り調律を任せてもらえる程甘い世界でないことは知っていた。それでも、調律師ヽヽヽとして採用された誇りは強く、先輩の鞄持ちとして業務に帯同し、技術や接客を学び、研鑽を積めるものだと期待していたのだ。
 しかし、いざ蓋を開けてみると、調律師になった実感なんて全く得られない、座学研修の連続だった。中でも、真っ先に取り組まなければいけなかったことが商品知識の徹底だ。これは、響の精神をジワジワと蝕んだ。

 先ず、大原則として、興和楽器はKAYAMA社の特約店なので、最低限KAYAMA製ピアノのラインナップは詳しく覚えておかないといけなかった。数種類の現行機種だけならまだしも、問題は何十とある歴代の機種やスペックについて、全て叩き込まないといけなかったことだ。
 ピアノの大きさや重量は勿論のこと、当時の定価、現在の二次流通市場での価値、製造されていた年代や製造番号など、数値化されているものを覚えるだけでも歴史年表の暗記より大変だ。それにプラスして、使用されていたパーツや設計のコンセプト、外装の仕様、音色やタッチの特長など、視認出来ない感覚の領域についても、言語化して覚える必要があったのだ。
 興和楽器では中古ピアノの販売業務は行っていないが、お客様からの問い合わせなど、そう多くはないシーンの為なのに、過去のKAYAMA製品については、何を聞かれても淀みなく答えられるように準備をしておかないといけなかったのだ。
 しかし、実際のところ、本当に調律師にそんな知識が必要なのか? という疑問は拭えないでいた。暗記しないといけない合理的な理由の説明は一切ないままに、会社は響にそれを求めた。つまり、「座学」と言う名の下、ひたすら監禁状態での暗記作業を積み重ねていただけだ。

 それでも、ピアノだけならモチベーションを保てた。そもそも、調律師はピアノの専門家でないといけない。その為に役に立ちそうな知識の習得は、本当に必要なのか否かには関係なく、積極的に取り組む動機にもなったのだ。
 しかし、大変だったのは、興和楽器は「総合楽器店」である為、取扱いのある全ての楽器に対し、最低限の専門知識を備えておかねばならなかったことだ。
 例えば、ピアノ展示のフロアでは、様々な電子ピアノも販売しているのだ。KAYAMA社の特約店とはいえ、電子ピアノは様々なメーカーの商品を取り扱っていた。それら一つ一つの機種について、詳細な説明を即座にお客様へ提示出来ないといけなかった。
 価格や寸法は当然のこと、同時発音数や音色の種類、メトロノームや伴奏機能、MIDIやUSBの接続、その他様々な内蔵機能や周辺アダプタの知識を覚えておかないと、お客様に対応出来ないのだ。
 他の楽器も、鍵盤楽器ほどシビアな要求はないものの、必要最低限の習得はノルマとされた。ほとんど何の前知識もない楽器も多く、部品名称以前に楽器名すら見分けが付かない所からのスタートは、苦行にも近いものがある。
 管楽器のことを何も知らない響にとって、マウスピースやリードの違いなんてアラビア語を解読するようなものだったのだ。

 最悪なことに、暗記の対象は楽器だけではないのだ。
 楽譜は出版社や難易度などを知っておく必要があったし、アクセサリーや雑貨、メンテナンスグッズなども、仕入先を把握し、類似品の説明が出来ないといけない。覚えても直ぐに忘れてしまい、また覚え直して……を繰り返す毎日。中学生の頃のテスト勉強のような毎日に、心身ともに疲れ果てていた。思い描いた調律師の日常とは程遠い「業務」に、響は何度も心が折れそうになった。
 せめてもの救いが、LM楽器のフロアがその特殊性から別棟になっていた為、習得の必要がなかったことだ。この上にギターやドラムの知識なんて、響には容量不足でインプット出来なかっただろう。

 在学中から続いた過酷な研修は、正式に入社した後も継続された。
 しかし、流石に給与を貰う身になったこともあり、店内での様々な雑用もこなさないといけなくなった為、少しずつ重心は研修から外れつつあった。勿論、響が課題を次々とクリアしていったこともあるが、何より店内が忙しかったのだ。いつまでも、暢気に座学を行っている暇なんてなかったことが、逆に響には良い方向に作用した。
 そして、ゴールデンウィークが明ける頃、ついに響の座学研修は終了した。厳密には、打ち切られたと言うべきだろう。何かをやり遂げた達成感もないままに、単に上層部が「もう止めよう」と判断しただけだ。
 そうなると、そもそも何の為の研修だったのか分からなくなる。担当の上司も、ただ加虐的な扱いを楽しんでいただけだったのかとも思えてくる。ともあれ、ようやく退屈で過酷な座学からは解放された。
 しかしながら、入社以来、今尚調律師らしい仕事は何もしていない現実は変わらない。相変わらず、ピアノに触れる機会さえないのだ。
 調律学校の同級生の中には、既に毎週十件以上も外回り調律を行っている人もいる。それなのに響は、店番、電話番、接客、発注、在庫管理……と、何も調律師である必要なんてない業務に追いやられていた。

 それでも腐らずに、命じられるがままの仕事に没頭していた甲斐があってか、七月に入ると、響は突然レッスン室のピアノの調律を命じられた。
 興和楽器は、本社だけでなく市内至る所に計九件ものレッスン会場を持っている。それぞれの会場にレッスン室が数部屋ずつあり、メーカー独自のカリキュラムによるピアノ教室を始め、ギターやヴァイオリン、フルートなど様々な楽器のレッスンや幼児の為のリトミック教室、その他ダンスや英会話まで、様々な教室を開講している。各部屋に一台ずつ、グランドピアノが設置されており、その数は全部で六十台にも及ぶのだ。
 興和楽器では、三ヶ月に一度、「備品調律」の名目でレッスン室の一斉調律を行っていた。ただし、一気に全六十台を行うのではなく、三十台ずつ二つのグループに分け、交互に実施しているそうだ。つまり、ピアノから見ると半年周期で調律されることになる。
 そして、今回実施する三十台を響が行うことになったのだ。



「松本、今月中にレッスン室のピアノ三十台、出来るか?」
 技術部長の梶山茂かじやましげるにそう聞かれた時、響は嬉しくて舞い上がりそうな気分になった。
(やっとピアノに触れられる! しかもグランドピアノだ!)
 新人調律師にとって、グランドピアノに触れる機会はなかなかない。それを一気に三十台も出来るなんて、技術者としてこんなに嬉しいことはない。
「ありがとうございます! 頑張ります!」
 込み上げる喜びを抑え切れないまま、響は梶山に頭を下げ、感謝を伝えた。

「リストは今朝、社内メールに添付しておいた。後で確認して、自分でそれぞれの教室にアポ取ってスケジュールを組め。大事なのは、レッスンの邪魔をしてはいけないことと、絶対に今月中に終わらすこと。この二点だけは何があっても守れ。分かったな?」
 そう告げると、梶山は足早に去っていった。

 興和楽器のトップ調律師だけあり、多忙な梶山は滅多にショップには顔を出さない上、いつも慌ただしく動いている印象だ。話によると、梶山は月に六十台以上、多い月は百台近くも調律をこなしているそうだ。
 身嗜みもいつも整っており、顧客からの信頼も厚く、コンサートやコンクールも担当し、かなりの販売実績も残している梶山のことを、響は密かに憧れ目標にしていた。
 梶山は、父宗佑より幾つか歳下とはいえ、優に一回り以上は離れているかのように若々しく見えた。容姿や立ち居振る舞いも父とは雲泥の差で、とても紳士的でエレガントなのだ。
 梶山こそ本物の調律師、理想的な調律師だと思っていた。その憧れの上司から、直々に命じられた仕事だ。このチャンスを活かすべく、自然と気合が入った。ありったけの力を投入し、実力を評価されたいと思ったのだ。

 梶山と別れると、響は急ぎ足で事務室に戻り、メールをチェックし、添付されていたピアノのリストをプリントアウトした。
 今月はまだ始まったばかりだ。残りの出勤日を数えると、今日を含めてまだ二十日近くもある。つまり、三日で五台ぐらいのペースで実施すればいい。毎日三〜五台家庭周りをしている梶山と比べると、かなり余裕のあるタスクだ。
 ただ、梶山と違い、響は調律だけしていればいいわけではない。普段の雑務の合間にやらないといけないのだ。しかも、長らく調律から遠ざかっている上、いきなりのグランドピアノ、作業が可能な時間帯も制限されている。
 でも、そういった懸念を差し引いても、ゆとりのある仕事だろう……。
 後に、それが大きな誤りだと気付くのだが、その時は楽観的に考えていた。

(次へ)



本日より、第3章【REALISTICな羊】が始まりました。
この章は、全7章の中でも最長で、十話、約42,000文字にもおよびます。
楽器業務での現実と理想や、調律師としての「在り方」など、専門的な話が続きますが、お付き合いいただけますと非常に嬉しく思います。
どうぞよろしくお願い申し上げます。