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羊の瞞し 第3章 REALISTICな羊(2)

全話目次

(2)初めての実践


 響は、梶山から送られたリストに再度目を通すと、幸いなことに本社のレッスン室が五部屋分も入っていることに気付いた。先ずは、慣れることも兼ねて、この五台からやってみることに決めた。
 教室担当者にレッスンの空き時間を教えてもらうと、今すぐ取り掛かれるピアノが三台もあった。但し、どの部屋も調律が可能な時間は15:30までとのこと。今はまだ十時前。なので、午前中に一台終らせ、午後からもう一台やりたいと伝え、許可を得た。なかなか幸先の良いスタートだ……とその時は思った。
 響は、早速指定されたレッスン室に入り、ピアノをチェックした。KAYAMAの現行モデルだ。奥行186cmのスタンダードタイプ。これなら楽勝……と思ったのも束の間、試弾してみた響は耳を疑った。尋常じゃないぐらいに音が狂っていたのだ。
 直ぐに外装を取り外し、メンテナンスの履歴を確認すると、この三年間、半年毎に木村という嘱託の調律師が調律していたようだ。彼は、元は興和楽器の社員調律師で、嘱託契約に切り替わってからも殆ど社員のような立場で出入りしており、気さくで優しい中堅調律師だ。噂を聞く限りでは、技術的にもかなり優秀らしい。なのに、僅か半年で、その木村が調律したピアノがこんなに狂うなんて……響には理解出来なかった。
 何より、こんな状態でレッスンを行なっている子ども達を思うと、鬱々たる気持ちが込み上げてきた。もっと良い状態をキープしてあげないと……と思ったところで、現実の壁にぶつかった。
 そもそも子ども達は、音楽を学ぶという看板に釣られたカモに過ぎないという側面もある。少なくとも、指導に当たる先生方とは違い、場所と環境の提供が収入源となる会社には、子ども達に真剣に音楽を教え育てる熱意なんてほぼない。経費の掛かるピアノのメンテより、生徒の勧誘を重視する。
 つまり、レッスン室の運営は、会社にとっては利益を追求する商売の一形態に過ぎない。そして、響はその組織の歯車の一つ。「子ども達の為」という名目も少しはあるだろうが、本質的には会社の為に行うに過ぎない。
 それでも、精一杯やるしかない。そこに違いはない。
 調律学校では経験したことのないような狂い方のピアノだが、逆にチャンスと捉えることも出来る。これを上手くまとめ梶山に見てもらえたら、少しは外回りの仕事も回してもらえるかもしれない……そんな期待を胸に、響は気合を入れ直した。



 ピアノの調律は、音を合わせる技術以前に、全体で20トンにも及ぶ張力のバランスを上手く取り、落ち着かせることが重要だ。
 ここまで大きく狂ったピアノは、いきなり調律をしても張力バランスが崩れ保持出来ない。なので、先ずは出来るだけ短時間で、すぐに狂うであろう「量」を見越した、大雑把な準備調律を行う必要がある。この工程を、業界では「粗律あらりつ」または「下律したりつ」と呼ぶ。ここで適切な張力バランスが取れないと、この後に行う本調律も上手く纏まらない上、後々狂いやすくなる。なので、とても重要な工程だ。
 響は粗律を行うに当たり、まずは現状のピッチを確認した。すると、なんと443hz以上もあった。履歴を見ると、毎回442hzで調律されている。つまり、音が高く跳ね上がっているのだ。
 そこで、響は疑問に思ったことがある。ピアノの弦は鋼製だ。金属は高温になると伸張し、低温では収縮する。つまり、弦が伸びようとする夏場は張力が低下し、音程が下がるのだ。もちろん、冬はその逆になる。今は七月……なのに、目の前のピアノは、冬場のピアノのようにピッチが跳ね上がっていた。
 いかなる時も、何故? という追求こそ、技術者としての成長に必須のファクターとなろう。しかし、その時の響には、考える余裕がなかった。目の前のピアノが、想像とは比にならない程に大変そうな状態だと知った焦りと、何とか仕上げてみせるという気負いが交差し、冷静さを見失い、軽いパニック状態だったのだ。調律を実施することだけで頭が一杯になり、判断力を失っていた。

 ピアノの調律は、中音部のオクターブに平均律を作ることから始める。この作業を「割振り」と呼ぶのだが、一番最初に合わすA音は外部から取るしかない。
 一昔前まで主流だったこのA音の音源は、調律師のシンボル的なアイテムでもある音叉だった。しかし、実は音叉にはデメリットも多く、今は使わない調律師の方が多数派だ。響も、0.1hz刻みで正弦波を発する高性能のチューナーを携帯していた。
 最終的に442hzで仕上げたいのだが、跳ね上がっているピッチを一気に下げようとしても、元に戻ろうとする力が働く為、粗律は0.5〜1.0hz程低目に合わす必要がある。この反発力を見込んだ匙加減こそ、技量の見せ所だ。経験と作業スピード、設置環境、ピアノの個性、ピッチの移動幅などを総合的に判断し、下げ幅を瞬時に決めないといけない。
 響は、自身の経験は未熟ながら、父の体験談を沢山聞いて育った。新しいグランドピアノが跳ね上がっている場合、復元力が強く働くので下げ幅は大きく取る必要があると聞いていた。なので、粗律のピッチは、思い切って440.5hzまで下げることにした。

 実際に粗律に入ると、中音部の跳ね上がりは想像以上に大きかった。こういうところで大きな誤差が出てしまうのは、経験が浅い証だろう。思い切って低目に設定して正解だった……と安堵した。
 しかし、懸命に「下げ調律」を行っていたのだが、ベース部に突入すると事態は変化した。何もしなくても、殆んど音が合っていたのだ。
 ここでも、本当なら「何故?」という探求が必要だ。しかし、響はこの不思議な現象もポジティブに受け止め、作業が楽になったことを喜んだ。と同時に、精神的なゆとりも生まれ、初めて部屋が蒸し暑いことに気付いた。実際、七月上旬の午後に近付こうとする時間帯だ。ベースを終え高音に取り掛かる前に、エアコンの電源を入れた。
 冷風が微かに首筋に掛かると、汗ばんだ身体に涼感が走り、心地良く感じる。心身共に、ホッと一息付くことが出来、緊張が少し和らいだ。
 僅か数秒の休憩後、今度は次高音から高音へと調律の範囲は拡張していくのだが、こちらもピッチは安定していた。ということは、グチャグチャに聞こえた最初の状態も、実際は中音部だけが異様に跳ね上がり、乱れて聞こえたのだろう。
 本当なら、瞬時にそこまで見抜かないといけないのだが、新人調律師にそこまで要求するのは酷な話だ。ともあれ、響が当初覚悟した時間の、半分程度しか要さずに粗律を終えることが出来た。初めての実戦の一つ目の工程は、順調に消化出来た……はずだった。

 本調律に入る前に、響は改めて試弾した。そして、直ぐに顔が青ざめ愕然とした。
「グチャグチャだ……」
 おそらく、粗律を行う前よりも酷くなっていた。何が起きた分からずただ困惑し、パニックになった。そんなはずはない……打ち消したい思いを胸に、何度も聞き返してみるが、目の前のピアノは正確な音律とは程遠く乱れ切っていた。
 基準音のピッチを確認すると、またしても驚愕の事実が判明した。
 最初は音が高く跳ね上がっていたピアノを、440.5hzに下げた筈だ。予定では、復元力で下げたピッチが少し押し戻され、粗律後には442hz辺りで落ち着いているという計算だった。
 ところが、今確認すると、最初と同じの443hzまで戻っている。少なくとも、中音部は下げたはず……元に戻るなんてことは有り得ない。狐につつまれた気分だ。
 チューナーの故障?
 音の取り間違い?
 それとも、無意識にとんでもないことをやらかしたのか?
 何かがおかしい筈なのに、それが分からない。

 レッスン室は、いつの間にか冷え切っていた。エアコンの設定温度を上げ、風量を抑えた。何が起きたにせよ、現状のままではいけない。再度、粗律からやり直す必要がある。現実的に、今は443hzまで跳ね上がっているのだ。何としても1hz下げないといけない。
 響は、今度は440hzで粗律を行った。すると、先程は触らなくても大体合っていたベース部や高音部も、今度は明らかに高い位置にある。必死の思いで音を下げ続けた。ピンはとても固く、嫌な粘りがあるが、とにかく急いだ。粗律は、早く終わらす程、安定を得る。
 二度目の粗律を終え試弾してみると、今度こそバランスは取れていた。だが、調律を始めてから既に一時間も経過している。午前中に終わらす計画は、修正せざるを得ない。それでも、少しでも早く終わらすに越したことはない。
 そのまま本律に差し掛かるべくピッチを確認すると、またしてもとんでもないことが起きていた。今度は、A音が440hzに下がったままだ。復元力が全く働かず、下げた状態で落ち着いたのだ。
 これはマズイ……響は、もうどうしていいのか分からなかった。

 狭いレッスン室は、エアコンを弱めると一気に気温が上がってしまう。いつの間にか汗ばんでいた響は、再度エアコンの温度を下げようとして、ようやく初歩的なミスに気付いた。
「エアコンの風がピアノに直撃している……」

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