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羊の瞞し 第3章 REALISTICな羊(3)

前話目次

(3)羊の親分



 何度繰り返しても、調律が思うように収まらない原因は、すぐ目の前にあったのだ。この部屋は、エアコンの吹き出し口が天井にあり、ピアノに直接冷風を吹き付けていたからだ。
 特に、調律中は屋根を全開にする為、弦が剥き出しになり、より影響を受けやすくなる。金属は温度変化により伸縮する。夏なのに、ピッチが高くなっていたのも、冷風による影響を日常的に受けていたからだろう。そう、最初からヒントがあったのに、気付けなかったのだ。
 確かに、一回目の粗律では寒くなるまでエアコンを強め、二回目は汗ばむまで弱めた。小さな防音室ならではの、短時間に大きく上下動する気温変化に、ピアノが過敏に反応したのだ。
 だが、原因が分かったところで、粗律からやり直すしかない。その為には、先ずは室温を安定させるべきだろう。エアコンを弱目に設定し直し、風量も抑え気味にして、部屋の温度が安定するまで待つことにした。逸る気持ちを抑え、十分経過するのを待った。

 結局、響は昼食も取らず、15時まで掛かってこのピアノの調律を切り上げた。そう、「出来た」のではなく「切り上げた」のだ。まだ三十分残っていたが、これ以上手直しする余力はなかった。心身ともに疲弊し切った響は、レッスン室から逃げ出したかったのだ。
 あの後も、何度やっても上手くまとまらず、繰り返し粗律を行った。何とか442hzに収まった時に、一気に本律を行ったものの、とても良いとは言えない仕上りだ。学生時代、ずっと成績トップに君臨していたプライドも、たった一台の実戦の前で打ちのめされ、自身の無力を思い知らされた。
 プロの調律師として、記念すべき一台目の調律は、響に大きな失意を与えた。練習と本番は、あまりにも違い過ぎた。
 残り29台——。
 こんな感じだと、余程効率良く消化しないと終えられないだろう。
 兎に角、予定を組むしかない。各教室へ電話を掛け、今からでも空いている部屋があるか確認した。ところが、少し予想はしていたのだが、夕方から閉館までは何処の教室もフル稼働している。勿論、本社もこの後は閉店まで空いていない。なので、響は各教室の明日以降の空き時間をリストアップしてもらうように依頼し、初日はたったの一台で終えることになった。

 その日の夕方、珍しく営業時間内に帰社した梶山に響は声を掛けられた。「今日は何台出来た?」と聞かれ、正直に「一台しか出来ませんでした」と答えると、素っ気なく「そうか」と返ってきた。
 梶山に、今晩付き合えるか? と聞かれた響は、躊躇なく「大丈夫です!」と答えた。尊敬する梶山からの誘いは、ネガティヴな内容が想像出来るとは言え、有難かった。午後七時半の閉店後、響は梶山に連れられ駅前のファミレスに入った。



「今日やったのはどのピアノだ?」
 やはり、梶山の要件はレッスン室の調律のようだ。
「はい、本社のA室をやりました」
「あぁ、あの狭い部屋か。大変だったろ?」
「恥ずかしながら、五時間以上も掛かりました」
 そう告げると、梶山は爆笑した。
「ハハハッ、五時間だって? そりゃ、意味ないぞ。まさか、何回も粗律を繰り返したんじゃないだろな?」
「いえ、実は……そのまさかでして……。恥ずかしながら、何回やっても落ち着かせられなくて……」
 すると、急に真顔になった梶山は、やや厳しい口調で冷たく言い放った。
「あんなピアノはさ、粗律なんてしなくていいんだ。ざざっと一時間で終わらせればいい」

 響は、梶山の口からそんな台詞が出るとは思ってもいなかった。どんな状況でも最善を尽くす調律師だと思っていたのだ。あの状態のピアノを一時間で、しかも粗律無しでやるなんて、とんでもない話だ。
「なんだ? 不満そうだな? レッスン室のピアノなんてな、時間掛けても掛けなくても、仕上がりに大差はない。自己満足の違いだけだ」
 梶山は、説教じみた論調で新人調律師を突き放すが、響もつい言い返してしまった。
「でも、出来る限りのことはすべきだと思いましたので……」
 すると、梶山は、今度は真顔から仏頂面になり、怒気を孕ませながら響の言葉を遮った。
「お前はまだ学生のつもりか? 理想論は必要ない。もう、アマチュアじゃないだろ? 俺は、結果の話をしてるんだ。これは調律だけの話じゃない。社会人なら、何であれ結果が全てだ。馬鹿みたいに五時間掛けて必死にやろうが、一時間で手早く終わらせようが、仕上がったピアノの結果には大差ない。どんなに良く仕上げも、あんな部屋、誰かがエアコン掛けたらお仕舞いなんだよ。一週間も経てば、誰がやってもめちゃくちゃになるんだ。違いがあるとすれば、お前は四時間も無駄にしたってことだけ。自分の時給を考えてみな。いいか、今お前に任せてるレッスン室の調律はな、練習じゃない。仕事だ。分かったか?」
 厳しく叱責された響は、しかしながら全て的を射ているだけに、何も反論出来なかった。悔しいが、梶山の言う通り結果が全てなのだ。確かに、ピアノ一台に五時間も掛けていてはいけないだろう。そう、練習ではない。仕事なのだ。

「明日は、何処をやる予定だ? アポ取ってんだろ?」
 言うことを言った為か、一転して柔和な表情に戻った梶山は、今度は親しげにそう問い掛けた。コロコロと表情の変わる人だ。
「はい、明日は栄町センターと三原池センターが15時半までどの部屋もOKと言われましたので、朝から栄町センターに行こうと思っています」
 響も辛うじて気を取り直し、そう報告すると、梶山は少し考え込む仕草を見せた。
「そうか……もし変更可能ならさ、三原池にしないか?」
「え、はい、大丈夫です……けど、どうしてでしょうか?」
「俺、明日の朝、三原池の近くの現場なんだ。でも、昼一予定の客からさっきキャンセル食らってな、ポッカリ予定が空いてさ、二時間ぐらいなら付き合えるぜ。一回、お前の調律みてやるよ」
「マジっすか? うわ、ありがとうございます!」
 ついさっき、酷いことを言われたばかりだが、梶山を尊敬する気持ちは変わらない。なので、彼に直接指導頂けるなんて、響にとってはこれ程嬉しいことはなかったのだ。
「11時45分ぐらいには、三原池センターに行けるから、昼飯付き合えよ。時間ないから近くの牛丼だけどな、それぐらい奢ってやるよ。で、その後、調律みてやるけど、あ、それか……一回俺の調律を見るか? 何なら、一台やってもいいぞ」
 響は、調律学校の同級生を除くと、父の調律しか見たことがない。ハンマー操作や打鍵のリズムなど、大先輩から学ぶことは沢山あるだろう。これは、滅多にない機会だ。
「ありがとうございます! 梶山さんの調律が見れるなんて、光栄です。是非勉強させて下さい!」と威勢良く返答すると、梶山も悪い気はしないのだろう、和かに微笑んでいた。
 往往にして、技術者は自分が一番だと内心では思っているものだ。プライドをくすぐられると嬉しいものだし、否定されると怒り出す人も多い。
 ある偉人の言葉に「賢者は学びたがり、愚者は教えたがる」とあるが、梶山はどちらなのか、盲目の響には分かるはずもなかった。



 響の自宅では、殆ど仕事をしないニートのような父宗佑が響の帰りを待ちわびている。
 美和に出て行かれてから、間も無く四ヶ月になる。週に多くても三件程度調律に出向く以外、何もやることのない生活を、宗佑は何を思い過ごしているのだろうか? 自らが招いた末路とは言え、妻に逃げられ、転職するには歳を取り過ぎ、隠居には早過ぎる五十六歳の宗佑を、響は実の親ながら哀れに思うこともあった。
 四月からは、家のローンや光熱費も響が支払っていた。美和がまとまった額の貯金を残してくれていたが、今のところ手を付けずに乗り切っていた。と言っても、新卒一年目の響には大した給与もない。宗佑の収入なんて、粗利はせいぜい数万円程度だろう。全く当てにならない。だから、響は夜も会社に内緒でアルバイトをしていた。閉店後の店舗清掃の仕事だ。
 時給や勤務時間の条件だけで選択したバイトだが、それなりにやり甲斐があり、職務は楽しくさえ感じていた。清掃業が向いていたのかもしれない。
 専用の機械を使って床を洗浄し、モップできれいに水拭きし、ワックスをかける。状態によっては、大型バフ機で床を(厳密には床に重ね塗りされているワックスを)研磨することもあれば、ワックスを全て剥離し、一から何層も塗り直すこともある。いずれにせよ、数名によるチームワークが大切な仕事だ。響は、僅か数ヶ月の経験とは言え、殆んどの技術をマスターし、現場によってはリーダーに任命されるほど重宝されるようになっていた。
 教室の調律が始まるまで、ピアノに触れることのなかった響にとって、持って生まれた体格の良さは、調律師より清掃屋の方が向いているのでは? と自虐的に疑うぐらい、アルバイトに精を出していた。

 実際には、経済的な事情で止むを得ず続けていただけだが、労働と引き換えに得たものはお金だけではなかった。毎日のように大型バフ機や自洗機、ポリッシャーといった清掃機械を取り扱うことは、筋トレと大差なかったのだ。いつしか響は身体的な健康を手にし、更には隆々と筋肉質に鍛え上げられ、持って生まれた長身と相まって格闘家の様な体型になっていた。
 興和楽器に出入りする運送屋にも、響の体格はよく褒められた。運送屋の連中は、例外なく筋肉質な体型を誇っているが、そんな肉体派の彼らから見ても響の体躯は突出しているようで、「よっ、レスラー」などと愛情を込めて揶揄われたものだ。
 中でも「アキさん」と呼ばれている中年の運送屋スタッフは、いつも響に親しげに話し掛けてくれ、「俺の代わりにピアノ運んでくれよ」と冗談とも本気とも取れる口調で懇願された。いや、実際に手が空いていれば店内移動や搬入搬出などの作業でアキさんを手伝うこともあり、皮肉なことに、その時が唯一ピアノに触れる機会でもあった。
 そのことを知ってか知らずか、「お前、調律がダメになっても運送屋でやっていけるな」と、アキさんによく揶揄われたものだ。

 しかし、この日は初めてアルバイトを欠勤した。毎日数千円の稼ぎを生み出す仕事の放棄は、今の響にとっては痛手だ。だが、それ以上に梶山の誘いは貴重な体験で、調律師としての誇りを思い出させてくれた。
 実際、厳しいことも言われたがとても有意義な時間となり、梶山の作業を見学させて貰える約束も取り付けたのだ。これは想定外の大収穫だ。
 技術は盗むもの。何故なら、技術屋は、技術を隠したがる人が多いからだ。調律師も然り。そんな中、梶山のオープンな対応はとても有難く感じた。

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