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羊の瞞し 第3章 REALISTICな羊(4)

前話目次

(4)備品調律


 梶山との食事を終え帰宅した響に、宗佑は大して関心もなさそうに「今日はバイトは?」と問いかけた。その様子が、あまりにも呑気で緊張感がなくて、響は少し苛立った。
 そもそも、正社員として定時まで働いた後に、何故バイトをしなくてはいけない状況なのか? 誰のせいで、響がこのような境遇に陥ったのか? その一番の要因である宗佑が、家計や収入に無関心なことに響は腹が立った。同時に、少しだけ、父を見限って離婚した母の気持ちも理解出来た気がした。
「今日は、急に上司に食事に誘われたから休んだよ。家計が心配なら、お父さんもバイトすれば?」皮肉交じりにそう答えると、いつものように宗佑は黙してしまう。
 おそらく、自身の不甲斐なさは十分に感じているのだろう。そこから何も手を打つことも出来ず、行動に移すこともない。全くもって、ちっぽけな男だ。親として、社会人として、そして男として、響は実父に侮蔑と憐憫以外の感情を抱けなくなっていた。
 しかし、唯一調律師として、宗佑は響の師でもあり、今尚尊敬の念を抱いていた。響にとって宗佑の存在価値は、父でも家族でもなく、調律師だけに集約されていたと言っても過言ではない。
 きっと、母が一人で出て行った理由の一つとして、宗佑と響の「父子として」よりも「師弟として」の関係にポジティブに転じる可能性を感じたから、というのもあるのかもしれない。実際に、技術の話は父に聞けば何でも解決するのだろうし、父の奮起に繋がる可能性も0ではない。
 それなのに、「師」としての父と話をする機会は、めっきり減っていた。仕事とアルバイトに追われ、時間的にも精神的にも、更には経済的にもギリギリの平衡を辛うじて保って生活していた為に、響にはこの数ヶ月に「ゆとり」を感じる瞬間が殆んどなかったのだ。
 常に苛つき、追い立てられ、辛うじて乗り切る毎日。そもそも、自宅には寝に帰るようなもので、寛ぐ時間なんてほとんどなかったのだ。そんな中で、緊張感のないダラけた父に、まともに向き合う気になれないのも当然と言えるだろう。
 しかし、この日は違った。父に対する感情は変わらないものの、少なくとも時間にはゆとりがあった。それに、初めて調律を任され、ようやく本業にやり甲斐を見出し始めたのだ。だからだろうか、「調律師として」の宗佑と少し話をしたくなった。

「今日さ、やっと調律やらせてもらえたよ」
 ボソッと呟くように話すと、宗佑は間髪入れずに「教室か?」と食い付いてきた。
「うん、なんで分かったの?」と聞くと、新人が最初に触るピアノは備品調律か展示品に決まってる、と言った。つまり、それほど責任を負う必要のないピアノだ。
「で、上手く出来たか?」調律の話になると、宗佑は普段の無気力な目から一転し、少しだけ輝きを取り戻したように見えた。
「それが……粗律に何回も失敗して、五時間以上も掛かっちゃって部長に笑われた」
「まぁ、五時間は掛かり過ぎだな。どうせ、空調が落ち着かなかったんだろ?」
「そうそう、流石だね。でもさ、部長はこんなピアノは粗律無しで一時間で終わらせろって言うんだ。そんなことしたら、後からグチャグチャになると思って反論したら怒られちゃってね。ねぇ、お父さんならこういうピアノ、どうやって調律するの?」
 灯台下暗し……響は、こんな近くに技術の相談が出来る人物がいることを、今の今まで忘れていた。そう、分からないことは宗佑に聞けば良かったのだ。
「こんなピアノって、グランドピアノのことか? それとも、空調が効き過ぎる部屋のピアノなのか、大手楽器店のレッスン室って意味か?」
「そんな細かいことはどうでもいいよ」
「どうでもよくないさ。ピアノしか見てない調律師は、ろくな仕事が出来ないぞ。ユーザーや設置環境、与えられた時間や予算など、常に総合的な環境条件に目を向けないとダメだ」
 いつにない宗佑の強い口調に響は少し気押されて、妥協を余儀なくされた。
「……分かったよ。じゃあさ、興和楽器の狭いレッスン室にある現行機種のグランドピアノ、空調が効き過ぎる部屋ってことで。こういうピアノはどうやって調律すればいい?」
「調律のやり方は、どんなピアノでも同じさ。違うのは取組み方だな。逆に聞くが、そのピアノは何故調律するか分かるか?」
「何故って……まぁ、しないといけない時期なんだろうし、半年周期でって決められてて、それに音も狂ってるし……」
 何故調律するのか……考えもしなかった問い掛けに、しどろもどろになりながら答えを捻り出していると、宗佑はそれを遮り被せてきた。
「いやいや、そういうことじゃない。時期なんて、大幅にズレなければいつでもいいはずだ。それに、音が狂ってるって言っても、そういう部屋にあるピアノは常に狂ってるさ」
「……うん、確かにそうだけど……じゃあ、どういうこと?」
 そう問い詰めると、宗佑は、一呼吸おいてゆっくりと語り出した。
「そもそも調律の目的なんて、ピアノの為だけとは限らない。むしろ、大手楽器店の場合はそうじゃない方が多いぐらいだ。レッスン室のピアノも定期的にメンテしてますよ、っていう外部向けのアピールの方が大事だし、技術部門の調律ノルマってのもあるはずだ。台数ベースか売上げベースか知らないけど、月毎、半期毎などで区切って数字を残さないといけないんだ。いつまでに何台やれって言われなかったか?」
 そう言われてみると、梶山に今月中に三十台必ず終わらせろと言われたことを思い出した。
「確かに、絶対に今月中に終わらせろって言われたけど……」
「だろうな。それが最優先だろ? つまりは、実績と既成事実の為の調律だよ。だから、五時間も掛ける必要はないし、誰も精度なんて求めてない。質だってどうでもいい。要は、やりゃあいいんだよ。で、質問に戻るけど、俺だったらどうするか? って話だったよな。お前の上司と一緒だよ。適当に一時間ぐらいで終わらすさ。いや、もっと言えば、そんな仕事をしたくないから、独立したようなもんだ」
 これが現実なのだろうか……響は、少し失望した。業界に。そして、父の話に。何より、どこも間違っていないように思える実感に。

 だとしたら、調律師は何の為に存在するのだろう?
 ピアノと正面から向き合い、ピアノの保守を第一に考え、そこに向けて技術を注ぎ込むという理想は、実際には求められていないのだろうか?
 必要なのは、見せ掛けの実績、売上げと台数を稼ぐ為だけの調律……父の言う通り、やればいいだけの調律なのだろうか?

「明日、部長が調律を見せてくれるって」
 そう伝えると、宗佑は響の期待とは全く異なるアドバイスをくれた。
「そうか。技術はともかく、いかに誤魔化し手を抜くか、そういう所は勉強になるだろう。皮肉で言ってるんじゃないぞ。大手楽器店の調律師というのはな、技術以外の部分が長けていて、言葉や態度でピアノを仕上げる職業なんだ。そこでやっていくなら、そのやり方をしっかり見ておけよ」
「そんな……確かにそういう人もいるけど、梶山さんは違うよ。技術のトップグレードを取得してるし、コンサートとかコンクールも担当してるし、クレームも殆んどない方なんだ」
「まぁ、流石にトップともなれば、それなりに技術面でも優秀な筈さ。それは俺も認めるよ。でもな、その優れた技術が仕事に活かされてると思うか? 楽器店の調律師はな、そんなものなくてもやっていけるんだよ」
「でも、技術は必要じゃないの?」
「もちろん、あるに越したことはない。ただな、最低限あればやっていけるって話をしているんだよ。知ってるか? 調律師のクレームの殆んどは、技術以外のことだ。言葉遣いとか身なりとか、外装の手垢とか……音がどうのこうのってクレームはほとんどない。あるとしても、技術力に関係のない共鳴とか雑音ばかりだ。つまり、クレームが少ないからって、技術が優れてるわけではない。接客マナーが一流なだけだ」
「だからって、接客マナーが一流の人は技術がないってことにもならないでしょ?」
「もちろんだ。でも、逆も言えるぞ。技術がどんなに優れていても、接客マナーの悪い人はやっていけないよ。そっちの方が重要じゃないか? つまり、俺が言いたいのは、大手楽器店の調律師には、技術力なんて大して意味がないってこと。接客マナーに長けているだけだって話だ」

 珍しく、宗佑も折れなかった。大手メーカー、特約店、社員調律師……どうやら、これらのワードを宗佑は毛嫌いしている。なので、全てを満たす梶山は、宗佑にとってはもっとも敵視する存在なのだろう。響から見ても、確かに宗佑と梶山は真逆の存在に思える。
 でも、今の社会的な地位を見て、二人の格差が目を覆うほどに大きいことは、疑いようのない事実だ。梶山の言っていたように、何であれ、結果が全て。調律師としてのスタンスも同じはずだ。どうしても、結果の伴ってない人による、結果を出している人への苦言は、響の胸の奥までは浸透しなかった。
 同時に、実際には見たことがないにしろ、二人の接客マナーを想像すると、皮肉にも宗佑の言っていることも正しいような気もするのだ。技術が優れていてもマナーの悪い人はやっていけない……まさに、宗佑自身に当てはまる話ではないだろうか?



 翌日、三原池センターに九時前に到着した響は、午前中一杯掛けて何とか一台調律を終えた。一台につき、一時間での作業を目標にしていたが、結局三時間近く掛かったことになる。前日の半分強とは言え、まだまだ及第点には程遠いだろう。
 工具を片付けていると、約束の時刻ピッタリに梶山がやってきた。いつも通りの隙のない整った身嗜みに柔和な笑顔、スマートな身のこなし。父と同業者とは、とても思えない。
 しかし、昨夜の父との話のせいか、響にはほんの一瞬だけだが、梶山の外見が作り込まれたハリボテにも見えた。完璧な外見とは裏腹に、内面から滲み出るものがないことに気付いたのだ。
「取りあえず、メシ行こうか」
 挨拶もそこそこに、梶山は響を近くの牛丼チェーン店へと連れ出した。
「午前中、何台出来た?」
 歩きながら、梶山は聞いてきた。正直に一台しか出来なかったことを伝えると、「ま、昨日よりは良いじゃん」と素っ気なく答えた。
「すみません、何とか一時間でやろうとは思ったのですが……」
 我ながら言い訳っぽくなるかな、とは思ったが、嘘ではない。それに、一時間でやれと言った梶山の指導を無視したと思われたくなかったので、どうしても伝えたかった。
 しかし、梶山は言い終わらない内に言葉を遮り、やや厳しく響に言い聞かせた。

「お前が真面目に仕事に取り組んでいることは、ちゃんと分かってるし、評価もしている。でもな、昨日も言ったが、技術の世界は結果しかない。どんな心構えで取組もうが、どれだけ頑張ろうが、三時間掛かったという結果は変わらない。午前中に一台しか出来なかった。その結果が全てなんだ。あとは、何を言っても言い訳にしかならない。分かったか?」
「はい、申し訳ありません。肝に銘じます」
 響は、この日は梶山の話を深妙に受け止めることが出来た。確かに、一般家庭であれコンサート会場であれ、調律師の評価は結果だけに委ねられるだろう。
「ともあれ、先ずはメシだ。仕事の話は、後のお楽しみってことでな」


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えぇと、どうでもいい報告ですけど、今日から本連載記事にタグ付けるのはやめます🙇‍♀️