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羊の瞞し 第3章 REALISTICな羊(5)

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(5)Träumerei


 昼食を終え、三原池センターに戻った二人は、先ずは午前中に響が調律したレッスン室に向かった。調律のチェックだ。
 ピアノ椅子に腰掛け、無言で試弾する梶山の傍らで、響は緊張の面持ちで講評を待った。梶山は尚も無言のまま、長三度、完全五度、オクターブ、2オクターブなど、様々な検査音程で唸りを確認する。そして、おもむろにピアノの演奏を始めた。バッハのインベンションだ。
 お世辞にも上手いとは言えない、辿々しい演奏だ。声部の弾き分けがメチャクチャで、ポリフォニーが台無しだった。反面、当の本人は恍惚とした表情で悦に入っている。トップ調律師の梶山も、演奏技術は大したことないんだな……率直に響はそう思った。
 梶山は、曲の途中で弾き止め、調律の評価を語り出した。

「全体のバランスはなかなか良い。高音がちょっと上げ過ぎだが、許容範囲だ。でも、次高音のユニゾンは甘いな。合わそうとし過ぎだ。無理に合わすんじゃなく作るんだ。ピッタリ合うと音が詰まるから、伸びる音を作るように心掛けるといい。三時間も掛かったのは減点対象だけど、仕上がりは上出来だ」
「ありがとうございます!」
 酷評を覚悟していた響は、意外な高評価に安堵を通り越し、少し拍子抜けさえした。しかし、喜びの感情も湧いてこなかった。と言うのも、客観的に梶山のバッハを聴いていて、自身の調律のバランスの悪さを実感したのだ。それに、高音よりも低音のバラツキが気になった。ユニゾンも、次高音より中音の乱れを指摘されると思ったのだ。
 つまり、梶山の指摘は、響の感想と一致しなかったのだ。そこに説得力を見出すことが出来ないぐらいに——。
 褒められたことは嬉しくても、正直なところ、その評価はハッタリで語ってるのかと勘繰るぐらい、的外れな意見に思えたのだ。もちろん、梶山の実力に疑いはない。だからこそ、このギャップがどこで生じたのか……全く分からない。また一つ、課題を与えられた気がした。

「さてと、じゃあ、サクッと一台やってやるけど、どの部屋だ?」
 そう促された響は、隣のレッスン室へ梶山を案内した。
「すみません、こちらの部屋をお願い致します」
「OK、じゃ、外装外してもらえるか?」
 響はグランドピアノの屋根を開き、譜面台と鍵盤蓋を取り外した。その間に、梶山は工具鞄を開き、必要な道具を用意しながら話し掛けてきた。
「聞いていると思うが、この建物はセントラル空調システムとやらになってるそうだ」
「はい、聞きました……でも、それってどうなんでしょう? 使ってない部屋も、廊下とか事務室もエアコン付いちゃうんですよね? なんか、すごく勿体無いような……」
「さあな、単に電気代だけの問題じゃないだろうから、損か得かなんて分からないよ。それに、俺たちが考えることじゃないさ。大事なことは、ピアノへの影響だ。おそらく、他のレッスン室に比べると、エアコンの影響は受けにくい。つまりは、ここのピアノはそんなには狂わないはずだ」
「確かに、昨日のピアノほどは狂ってなかったです」
 すると、梶山は「だろう?」とニッコリと微笑んだ。どうやら、どんなことでも肯定されると喜ぶ性格のようだ。

「お前、履歴書に特技はピアノ演奏って書いていたよな?」
 はい、とだけ答えると、何でもいいから弾いてみろと言われ、響は選曲に悩んだ。先程の拙い演奏を聴いた後では、リストやラフマニノフは嫌味に受け取られるだろう。しかし、調律前の確認を兼ねた試弾だろうから、初歩的な曲も適していない。悩んだ挙句、響はシューマンのトロイメライを選択した。
 この曲は、ただ弾くだけならそこまで難易度は高くないが、美しく響かせ歌い上げるには、それなりに高度な技巧を要する小曲だ。音域も狭過ぎず、細かいパッセージもないので、和音の点検にも適しているし、嫌味にもならないだろう。何より、響の得意なレパートリーの一つだった。

 梶山という特異な聴衆ヽヽを前に、響はトロイメライを紡ぎ始めた。だが、いきなり出だしのF-durの和音で躓きそうになった。F-A-Cで構成されたシンプルな和声なのに、グチャグチャに濁った唸りがぶつかり合い、ピントのズレたユニゾンがさらに調和を掻き乱したのだ。
 同じ「音を聞く」作業でも、調律師として音律をチェックする時と、演奏者としての捉え方は、こんなにも乖離しているのかと新たな発見に繋がった。これは、悲惨な状態のピアノから生まれた、唯一のポジティブな結果として受け止めてもいいだろう。つまり、調律の確認では気付かなかったのだが、曲を弾いてみると予想以上にメチャクチャに狂っていると感じた。先程の課題の答も、ここにあるのかもしれない。
 曲は、中間部に差し掛かった。やや短調気味に転じ、少しだけ荒々しく盛り上がる場面でも、音が狂い過ぎている為、思ったような表情の変化を生み出すことが出来なかった。
 もっと言えば、タッチも重く、ダイナミクスのコントロールが効かない為、どうしても平坦な演奏に陥ってしまう。僅か二分程度の曲なのに、響はもどかしく感じ、早く終われとばかりに、曲想の変化に乗じて微かなテンポアップを試みた。
 しかし、あまりにも音が狂っている為、ミスタッチを犯したような錯覚を起こし、指使いを間違えそうになる。感情や表現を盛り込む次元には、到底達することがない流れ作業のような演奏だ。こんな響きは、シューマンの望んだ音じゃない。ただ記憶の中の楽譜をなぞるだけ、機械的に音へと変換することだけに集中した。
 辛うじて最後まで弾き切ると、梶山は無表情のまま「お前、結構ピアノ習ってたんだな」と呟いた。響にとっては、自身最低ランクの無様な演奏だ。ただ弾いただけ、音符を音にしただけの棒読みだ。音声ガイダンスと大差はない。それでも、演奏は初級レベルであろう梶山には、上手い演奏に映ったのかもしれない。

「じゃあ、始めるけど、俺も次の現場があるからそんなに時間はない。幸い、お前も弾いて分かっただろうけどさ、このピアノは大して狂ってないヽヽヽヽヽヽヽヽ。なので、粗律なしの一回取りでやる」
 梶山のこのセリフに、響は無条件に反応してしまった。
「えっ、……すみません、ものすごく狂ってる思いますが……確かに、昨日のピアノ程ではありませんが、これぐらいの狂いなら粗律は必要ないのですか?」
 すると、梶山は見る見る間に不機嫌な表情に変貌し、口調も厳しくなった。肯定されると喜ぶのとは反対に、否定されると烈火の如く怒るのだろう。
「お前さ、何の為に弾かせたと思ってんだ? この程度で粗律する気か? だから、バカみたいに何時間も掛かるんだ。もう一度言うが、これは練習じゃない。調律なんてな、時間掛ければ学生でも綺麗に仕上がるんだ。これを一回でまとめられないんじゃ、仕事にならねぇよ。まだ練習したいんなら、学生からやり直せ!」
 梶山の急変に戸惑い、怯えた響は、すぐさま謝罪した。しかし、それは社内での立場の違いを鑑みた上での謝罪であり、梶山の話を認めたわけではない。仕事だからこそ、キッチリとやるべきなのではないのか? そう考える響には、どうしても納得出来なかったのだ。
「もういい、とにかく始めるから時間計りながらよく見ておけ」
「すみませんでした。勉強させて頂きます。よろしくお願いします」
 果たして、梶山は響に調律を教えたいのか、或いは見せつけたいだけなのか、若しくは、それ以外に何らかの意図があるのか……その真意は掴めない。



 梶山の思惑は何処にあれど、実際にその調律作業をライブで目の当たりにすると、驚きの連続だったことは認めざるを得ない。何よりも、まるで早送りのような作業スピードには驚愕した。
 そして、一つ一つの打鍵がとても強く、小刻みに激しく連打する激しさにも唖然とした。しかし、ややもすれば、せっかちで雑な印象を与えかねない作法とは裏腹に、右手のハンマー操作はこれ以上ないぐらいに繊細で簡潔だ。チューニングピンの回転を必要最低限に留めていることは、上げ下げする音の動きが証明している。つまり、ピンに無駄な負荷を全く掛けていない。この理想的なチューニングハンマーの操作技術は、宗佑と同レベルと言えよう。
 一方で、音の捉え方は褒められたものではない。少なくとも、響は参考にしたくなかった。激しい小刻みな連打では音尻を捉えることは出来ず、ユニゾンもオクターブも音の立ち上がりだけで合わせている。長六度、長短の三度、十度といった検査音程はほとんど無視し、2オクターブやオクターブ五度といった振動数比のシンプルな和音だけを重視するようだ。

 また、慌ただしい梶山の調律に慣れてくると、時折疑問を抱く瞬間が通過することに感付いた。オクターブもユニゾンも、詰め切れていない内にOKとすることが何度かあったのだ。
 つまり、「もうちょっと合わすべきでは?」と思える音が、結構な割合で残ったのだ。更に、最高音部に入ると全く手を付けない音もあった。明らかにズレているユニゾンも、そのまま素通りだ。
 梶山は、最後に軽く試弾し、幾つか目立つユニゾンを手直しして調律を終えた。時計を見ると、開始から五十分しか経っていない。確かに、速い。とてつもなく速い。響の粗律と大差ないスピードで、本律をやったのだ。その点は、心底凄いと思う。凄いとは思うのだが……さて、スピード以外に見習うところはあっただろうか?
 最初は感心した最小限のハンマー操作も、強い打鍵や最低限の検査音程と同じく、時間短縮だけに特化した作法に思えてくる。だからと言って、誰もが簡単に真似ることなんて出来ない最上級の技術には違いない。ただ、似たようなハンマー操作でも、宗佑の場合はピンへの負担や音律の安定を極める目的に感じるのだが、梶山はそうではない印象なのだ。
 つまり、早く終わらせるだけの調律。

「要は、やりゃあいいんだ」
 昨夜の父の言葉を思い出した。この世界に抱いた理想なんて、まさにトロイメライ(夢想)に過ぎないのだろうか。


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作中に出てきた楽曲を紹介します。

①バッハのインベンション

Invention No.1 in C major,BWV 772

梶山が辿々しく弾いた曲です。
「インベンション」は「発明」「ひらめき」といった意味ですが、ちょっとしたモチーフの「ひらめき」を多声進行で作った曲のことです。
バッハの場合、二声によるものを「インベンション」、三声を「シンフォニア」と呼んでいましたが、近年は「インベンションとシンフォニア」として、まとめて一つの曲集と捉えるようになりました。
作中では、もっと難易度が低く、有名なハ長調の1番を想定しています。

動画は、大好きなグールドによる演奏です。


②シューマンのトロイメライ

響が梶山の前で弾いた曲です。
これは、全13曲からなる『子どもの情景』という小品集の7曲目です。
メロディの美しさ、親しみやすさから、単発でも有名になり、よく演奏される曲で多くの方が耳にしたことがあるでしょう。

動画は、アルゲリッチの演奏を貼ります。
牛田君もオススメで迷いましたが、アルゲリッチの方が分かりやすい演奏に思いました。