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羊の瞞し 第3章 REALISTICな羊(6)

前話目次

(6)ウルトラマンにはなれなかった


 激しく、猛スピードで駆け抜けた梶山の調律。その是非はともかく、極度の集中力を維持しながら、爆発的に体力を発散させたかのような調律だ。心身共に消耗し切っているのでは? と思いきや、梶山は何事もなかったかのような涼しい顔で鍵盤の乾拭きをしていた。その表情からは、疲れた様子なんて全く感じ取れなかった。
 彼にとっては、アレが普通の調律なのだ。きっと、日常の一コマに過ぎない。おそらく……見た目からは想像出来ないが、上手く脱力しているのだろう。

「チューナー持ってるか?」
 調律を見せてくれた梶山に、何をどう言葉にすべきか迷っていた響は、逆に不意に話し掛けられた為、ビクッとバネ仕掛けのような動きで慌てて工具カバンから愛用のチューナーを取り出し、梶山に手渡した。同時に、調律の開始時にピッチを確認しなかったことを思い出した。
 ピアノを調律する際、真っ先に必ず行うべき作業が、「音叉取り」と呼ばれている基準音のピッチ設定だ。もっとも、本物の音叉を使う調律師は減り、チューナーの使用が一般的になっているが、「音叉取り」という言葉だけは慣習的に今尚使われている。
 梶山は、この最も大切な工程まで省いていたのだ。

「おっ、良いチューナーじゃないか。えぇと、443.2hzか。跳ね上がっとるな……松本、記録カード書いてくれるか? これ、俺のシャチハタだ。A=442hzって書いて押しといてくれ」
 工具を片付けながら梶山はそう命じたが、響はつい聞き返してしまった。
「えっ? ……443じゃないのですか?」
 悪気のない響のこの一言は、不用意だったようだ。とにかく、梶山には些細なことでも反論してはいけないようだ。急激に、不穏な空気に変わるのが分かり、響は自分の軽はずみな発言を後悔したが、既に手遅れだった。
「何か問題か?」
「いえ、そのぉ……カードは正確に書くべきと習ったもので……すみません、学校でそう習っただけです」
「あぁ、正確に書くべきだろうな。で、今この仕事で442って書いて、何か問題があるのか? って聞いてるんだ」
 予想以上に怒気を含んだ声に、響は黙り込んでしまった。それに、現実的な問題は、確かに思い浮かぼない。

「お前さ、この音聞いて何ヘルツか分かるのか?」
「いえ……分かりません」
「偉そうな口利くんじゃねぇぞ。ピッチなんて、こういう環境じゃ常に変わるもんだろ? 今この瞬間の正しいピッチを書いて、何の役に立つんだ? それより、レッスンの先生に443hzでやったなんて思われたら、どうなると思ってんだ? 中にはな、ちょっとでもアラを見せたら、突っ掛かってくるバカもいるんだ。1hzぐらい鯖読んで、何が悪い? それに、下手にピッチ動かすと、無駄に時間が掛かるし落ち着きも悪くなるだろ? お前もそれで五時間も掛かったんだろ? 精度より時間優先の調律だ。それを教わりたかったんじゃないのか? これは、コンサートの調律じゃねぇんだよ!」
「申し訳ございません……仰る通りです。それに、とても勉強になりました」
「勉強になりました、だと? 言うのは簡単だ。本当に勉強になったんなら、今からもう一台終わらせてみろ。分かったな?」
 梶山は、普段の仕事中に見せる柔和な表情とは程遠い、冷酷で皮肉っぽい笑みを微かに浮かべ、冷たく言い放った。
「え……でも、ここは、今日は三時半までしか空いてないって……」
 ささやかな抵抗を試みる響を遮り、梶山は冷たい言葉を被せてきた。

「それがどうした? あと百分もあるじゃねぇか。コンサート調律でも、九十分も貰えたら良い方だぞ? 幾ら新卒でもな、レッスン室が九十分で出来ないようじゃ、調律師なんて止めろ。誰もコンサート向けの精度なんて求めてない。きっちり仕上げろ、なんて要求してないだろ? 九十分で終わらせろって言ってるんだ」とトドメを刺した。
 これで、完全に退路を塞がれた。やるしかない。もし、出来ないと……おそらく技術部から外されるのだろう。
「知ってるか? 調律学校を出た新米調律師はな、最初の一年間で半分以上が辞めるって統計が出てるんだ。三年続くのは、三割もいないらしいぞ。理想論だけじゃ、実際の業務なんて乗り切れないんだ。悔しいなら、先ずはその三割に入ってみろ!」
 そう吐き捨てて、梶山は足早に三原池センターを出て行った。次の現場に向かうのだろう。何であれ、響の為に時間を割いてくれ、実践を見せてくれたのは有難いことと受け止めなければならない。
 同時に、調律師という職業のリアルな姿も知らされた思いだ。そう、理想を追求してるだけじゃダメなのだ。いかに誤魔化し、手を抜き、強引に終わらすのか……きっと、雇われ調律師とは、そういう一面も切り離せない職業なのだろう。それが出来ないなら、梶山の言う通り調律師を辞めるか、父のように一人でやるしかない。

 すぐにもう一台の調律に取り掛からなければ……と思いつつも、響は梶山の調律したピアノを弾いてみたい衝動は抑えられなかった。ものすごい勢いで、適当に手抜きしながら一時間弱で仕上げたピアノ。粗律を省き、ピッチすら決めずに強引にねじ伏せた調律。果たして、この楽器からどのような音楽が出来るのか、自分の演奏で確かめたかったのだ。
 大屋根を全開にし、響は再度トロイメライを弾いてみた。出だしのF-durは、なるほど調律前のカオスな濁りは改善され、スッキリと調和した唸りが溶け合っていた。右手の上昇音型も、ゆるやかなクレシェンドを伴いながら豊かに音を膨らませ、随分と表現力が付いている。僅か一時間弱でこれ程まで激変させた技術は、素直に感嘆するしかない。
 しかし、調律を終えたばかりのピアノに特有の音の「締まり」はなく、むしろ、決壊しそうな「か細さ」と「脆さ」を感じた。それは、決して繊細なのではなく、砂を盛って出来た山のようにただ頼りない。強く弾こうものなら、一気に崩壊してしまうような錯覚に陥る。どんな和音を重ねても、不安定に設置された不規則な形状の造形物のように、危なっかしくて、タッチに自信を持てないのだ。
 そして、一番の欠点は「音の伸び」の欠如だ。細かく動くパッセージは、それなりに音の粒が揃い心地良く転がるが、ロングトーンは全て沈んでしまう。音に「詰まり」こそないものの、全く「伸び」もない。殊更、トロイメライのようなしっとりと歌う音楽には、全く不向きな調律と言えるだろう。

 ただ早く終わらせただけの調律……ピアノのポテンシャルを引き出そうともせず、保守を見越したコンディションを作るでもない。
 ユーザーへの満足の提供、教育ツールとしての適性、何より音楽的な表現力の保持。数時間の削減と引き換えに、それら全てを犠牲にする調律が、ここでは求められているということなのか?
 果たして、それは正しいことなのだろうか?
 ならば、調律師の存在意義を何処に見出せばいいのだろうか?

 本質的な疑問が芽生えた響だが、それでも今から一台終わらせないといけないという生々しい現実から、目を背けることは出来ない。モタモタしている猶予はない。三時半にはレッスンが始まるのだ。
 一方で、この程度の調律なら出来るかもしれない、と思い始めていた。
 少しでも良い音、しっかりと保持する為のチューニングハンマーの操作、適正なピッチ、バランスの取れた和声、丁寧なユニゾン……そういった仕上がりの精度は、全て無視していいのだ。少なくとも、梶山の実演では全く重視されていなかった。
 ただ、時間内に終わらすことだけを考えればいい。それなら出来るはず……そう信じて、隣室のピアノの外装を取り外しに掛かった。



 結論から言うと、調律はギリギリでレッスンに間に合った。いや、無理矢理「打ち切った」感じだ。致命的なミスは、三時半からレッスンが始まるということを、三時半に終わらせればいいと勘違いしていたことだ。
 ピアノの先生が三時過ぎに到着し、調律中と気付くと露骨に不機嫌な表情を浮かべた。
「あとどれぐらい掛かります?」と聞かれ、三時半には終わりますので、と答えると、先生の表情はみるみるうちに曇り出した。

「それは困りますわ。聞いていないのかしら? 三時半からレッスンが始まるので、二十分ぐらいには生徒さんが来ますの。グループレッスンなので、いつも席で待たせてるのでね、遅くても二十分ぐらいには終わって下さらないと……その、いつもの方……木村さん? 今日はいらしてないの?  梶山さんもいらっしゃらないのかしら?」
 遠回しに、何故木村じゃなくアンタが調律をやってるの? と言いたげだ。興和楽器において、ベテラン調律師のネームバリューは、想像以上に大きいのかもしれない。
「すみません、木村は多忙でして、今回は私、松本が担当させて頂くことになりました。三時二十分には必ず終わらせますので、ご安心ください」
 響は平静を装いながらそう伝えたものの、自分自身が一番安心出来ない状況だ。

 片付けの時間も含め、残された時間は十五分ぐらいしかない。調律の終盤になってからの十分短縮は、とてつもなく辛い。ただでさえ、理想を無視して限界ギリギリのスピードで行っており、何とか間に合うかも……と目星が付いたところだったのだ。なのに、ここにきてのゴール地点の変更、しかも、前倒しはかなり厳しい。
 それでも、何がなんでも終わらせないといけない現実は打ち消せない。それこそが、最低限クリアしないといけないミッションなのだ。レッスンを遅延させることだけは、何としても避けなければならない。残された工程から優先順位を瞬時に判断し、中音部のユニゾンを大急ぎで合わせた。
 小刻みな強打鍵を繰り返し、チューニングピンを強引にじり、微妙な狂いは無視して次に進む。打鍵する左手の中指と薬指の関節が痛み、感覚が麻痺してきた。
 それでも、叩くペースも強さも維持し、いつもの倍以上のスピードで中音のユニゾンを合わせた。だが、十分以上は消費しただろう。響に出来る残された時短手段は、まだ調律をしていない高音には一切手を付けないでおくことだ。もう、それしかない。調律師として、こんな手抜きは気が引けるが、中途半端に触ると収拾がつかなくなる。
 躊躇し、思案を巡らせる間も、カウントダウンは止まらない。いよいよ残り三分を切った。もう、悩んでる時間もない。
 外装を取り付け、工具を片付ける時間もみておかなければ——。
 三分間で怪獣相手に死闘を繰り広げるウルトラマンを、響は心底尊敬した。あんなの、絶対に無理だ。三分なんて、瞬く間に過ぎてしまう。怪獣と違い、動くことも反撃してくることもなく、ただ腰を据えて鎮座しているだけのピアノを相手にしていても、三分では成す術もなかった。

 響は、時計を見ながら全体の発音をチェックし、特にズレの目立つ音を手当たり次第に合わせ直した。スペシウム光線なんて決定的な武器のない響にとって、これが精一杯の抵抗だ。冷静な判断なんて出来やしない。秩序も法則も見失った手直しは、とても合理的な手段とは言えないだろう。
 残り一分を切ったところで、大急ぎで外装を取り付け、工具をカバンに押し込み、部屋を飛び出した。何とか呼吸を整え、「お待たせいたしました」と強張った笑顔で先生に告げ、約束時間ギリギリで教室を開放した。
 間に合ったとは言えども、まだ怪獣は生きているかもしれない。確実に仕留めた実感なんて、全くないのだ。
 更に言えば、ペダルのチェックや最終の試弾さえしておらず、どのように仕上がったのか本人さえも分かっていない。決して良くはない出来映えには違いないが、その中でもランクはある。きっと、底辺に近い仕上がりだ。
 こんな調律だと、直ぐにクレームがくるかもしれない。不満に思われつつ、有耶無耶に乗り切れるかもしれない。意外と、普通に受け入れられるかもしれない。いや、そもそもが、誰もピアノのコンディションには関心がないかもしれない。何であれ、今更どうしようもないのだ。
 それより、鍵盤や外装の乾拭きも出来なかったことを心配するべきかもしれない。こういうところから、クレームは発生しやすいと聞いている。
 その上、記録カードの記入さえ忘れてしまった。カードの記入漏れは、ピアノのコンディションとは無関係だが、事務上の記録として後々問題になるかもしれない。閉館後に再訪するしかないだろう。今日もアルバイトは休まないと。
 片付けのチェックも不十分。細かい工具を、ピアノ内部に置き忘れた可能性もある。何かしら、致命的なミスを犯している可能性もある。

 今から出来ることは、ただレッスン中にバレないことを祈るだけ——。
 欠陥修理のまま引き渡すリフォーム業者って、毎日こんな思いを味わっているのだろうな……と嫌な汗をかきながら部屋を後にする。そう、結果が全て——梶山の言っていた意味が、ようやく本当に理解出来た気がした。
 後はもう、受け入れるしかないのだ。

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