![マガジンのカバー画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/122284280/794f4eccab83465317c7bb7722647b35.png?width=800)
- 運営しているクリエイター
2024年1月の記事一覧
羊の瞞し 第3章 REALISTICな羊(6)
(6)ウルトラマンにはなれなかった
激しく、猛スピードで駆け抜けた梶山の調律。その是非はともかく、極度の集中力を維持しながら、爆発的に体力を発散させたかのような調律だ。心身共に消耗し切っているのでは? と思いきや、梶山は何事もなかったかのような涼しい顔で鍵盤の乾拭きをしていた。その表情からは、疲れた様子なんて全く感じ取れなかった。
彼にとっては、アレが普通の調律なのだ。きっと、日常の一コマに
羊の瞞し 第3章 REALISTICな羊(7)
(7)アキさん
レッスン室の三十台の調律は、最初に抱いた期待とは裏腹に、とても過酷な業務となった。苦痛と言ってもいいほどに。それでも、何とか期限内には終えることが出来た。成果らしい成果はそれだけだ。
いつしか調律師を目指すようになり、ようやく調律師になれた響にとって、初めて任された「調律師の仕事」なのに、あんなに嫌だった座学の方がマシと思えるぐらい、苦しく辛い仕事になったのは皮肉な話だ。
羊の瞞し 第3章 REALISTICな羊(8)
(8)体育館のピアノ
岩成中学校に時間通りに到着すると、梶山は既に車を降りて待っていた。「すみません」と言うより早く、1時って聞いて本当に1時に着いてどうするんだ? と皮肉られた。確かに、少しぐらい早く到着するべきだったかもしれない。一瞬ムカつきはしたものの、何気なく外回りのちょっとしたノウハウを教えてくれる梶山には感謝しないといけないだろう。
確かに、響に対する言葉の選択や、コロコロと豹変
羊の瞞し 第3章 REALISTICな羊(9)
(9)ピアノのカルテ
「終わったらどうしましょうか?」
「そうだな、窓を全部閉めて照明を落とし、ドアの鍵を掛けて音楽室に来てもらおうか。扇風機は、コンセントを抜いてコードだけまとめといてくれ。音楽室は、さっきの職員室の校舎の四階の端っこだ。来れば分かる……しかしさ、学校の音楽室って、何故最上階の角部屋って決まってるんだろうな。この歳になるとな、四階まで階段で上がるのも足腰にくるのに、道具を運び込
羊の瞞し 第3章 REALISTICな羊(10)
(10)社員、嘱託、自営
響が音楽室に到着した時、梶山は、既に準備室のピアノを終え、丁度隣の音楽室へ入ろうとしていたところだった。
「おぅ、意外と早く終わったな」
響の姿を見るなり、梶山はそう話しかけて来た。
「二時間ぐらいでやれって言ったけど、どうせ三時間近く掛かるんじゃないかって思ってたんだ。疑ってすまんな、上出来じゃないか」
やはり、今日の梶山は不思議と上機嫌のようだ。木村の件があっ
羊の瞞し 第4章 EGOISTICな羊(1)
(1)ベートーヴェンのシンフォニー
入社一年目の九月——。
響の業務は、急遽外回りの調律がメインへと変えられた。会社としても想定外の事態だが、木村との嘱託契約を解除したことにより、彼が担当していた顧客調律を誰が引き継ぐのか慎重に話し合いが行われた。社員、嘱託含めた他の調律師達で分配する案も出たが、最終的には、一人が全てを引き継ぐ方が手っ取り早いとの判断が下され、響に白羽の矢が立ったのだ。なの
羊の瞞し 第4章 EGOISTICな羊(2)
(2)羊たちの欺瞞
「仕事は順調か?」
近くの居酒屋に場所を変え、二人で飲み直していた時、響は不意にそう聞かれた。
「順調……だと思います。でも、たまたま外回りをやらせて貰えるようにはなったんですけど、こんなことしたくて調律師になったんだっけ? ……って、まぁ、贅沢なんでしょうけど、スッキリしない感じはあります」
榊は、真面目な顔で響の話を聞いていた。そして、どんな仕事も、理想通りにはならな
羊の瞞し 第4章 EGOISTICな羊(3)
(3)皆んなエゴイスト
「アキさんは、ピアノ業界には戻らないのですか?」
しばらく黙り込んだまま、ロックのウイスキーを飲み続けている榊は、今度は間違いなく酔っている。なので、響はタイミングを見計らい、これが最後のつもりで願望を込めた質問をしてみた。すると、意外な話へと展開されていくことになった。
「戻るも何も、今も繋がってるさ。裏ルートだけどな。木村ともずっと連絡取り合ってたし……アイツ、ヘマ
羊の瞞し 第4章 EGOISTICな羊(4)
(4)運送のバイト
きっかけは意外と直ぐに、思わぬ形で訪れた。
いつものように、終業後、榊の事務所を訪れた響は、そこで意外な人物とばったり会ったのだ。
「あら、響君、お疲れさま」
親しげにそう声を掛けてきたのは、興和楽器の嘱託調律師である篠原久子だ。一瞬、会社に内緒のアルバイトがバレたのか、と焦ったが、篠原も榊に運送を頼んでいることを思い出した。
「おぅ、響、お疲れさん」
榊が奥の倉庫
羊の瞞し 第4章 EGOISTICな羊(5)
(5)チャンス到来
調律師一年目の響にとっては、外回りの客は全て初対面の人ばかりだ。毎日が新鮮で、色んな人、様々なピアノに出会えることが楽しみだった。反面、自分が調律師として受け入れられるのかという、審判を受けるような心境でもあり、緊張の連続だった。技術が通じるのか不安にもなったし、無作法を叱られないかという恐怖もあった。
その日は、初めて掘り起こしで組めた客ということもあり、いつも以上に緊
羊の瞞し 第4章 EGOISTICな羊(6)
(6)ピアノ専科
事務所に到着すると、榊は先に来て待ってくれていた。どうせ、機嫌が悪いのだろうと予想したものの、そんなこと気にしてる場合ではないし、時間も限られている。
とりあえずは、「お疲れ様です。急にお呼びたてしてすみません」と形式的に挨拶をしたが、予想に反して機嫌の良さそうな榊は、返事もせずに「おぉ、丁度良かった。悪いけど、今晩の仕事中止になったぞ」と一方的に話を始めた。
「え? どう
羊の瞞し 第5章 CHAOTICな羊(1)
(1)カオスへと
どのような職業にも、存在する意義や目的がある。そこに共感や憧憬を抱き、加担しようとする働きこそ職業選択の動機となるはずだ。
しかし、理想と現実のギャップは何処の世界にも存在する。簡潔に言えば、「期待外れ」という差異の実感だ。時間や空間、社会的地位、年齢など、そこに到達しないと見えないものは確かにある。いや、そこに至る道中でさえ、極端なギャップが発生することもある。
仕事も
羊の瞞し 第5章 CHAOTICな羊(2)
(2)嘱託調律師
翌日、響は外回りの合間に、篠原の自宅を訪問した。ちょっとお会いして相談したいことがあるのですが……と電話すると、それならうちにおいでよ、と快く応じてくれたのだ。
「二十年以上も前のことですが、当時担当されていた柳井啓子様って覚えていらっしゃいますか?」
篠原の工房に着いた響は、挨拶もそこそこに、そう訊ねてみた。篠原は懸命に思い出そうとしたものの、「う〜ん、ごめんね、思い出