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羊の瞞し 第4章 EGOISTICな羊(5)

前話目次

(5)チャンス到来



 調律師一年目の響にとっては、外回りの客は全て初対面の人ばかりだ。毎日が新鮮で、色んな人、様々なピアノに出会えることが楽しみだった。反面、自分が調律師として受け入れられるのかという、審判を受けるような心境でもあり、緊張の連続だった。技術が通じるのか不安にもなったし、無作法を叱られないかという恐怖もあった。
 その日は、初めて掘り起こしで組めた客ということもあり、いつも以上に緊張していた。と言うのも、普段の外回りとは違い、初めての「下見」だったのだ。
 梶山には、今回の掘り起こしで組んだ予定のことは、まだ報告していなかった。理由は特にないが、単に終業間際に予定が組め、しかも、それが予め休日申請していた翌日だった為、事務的な手続きが面倒だったこともあるが、本能的にその方が良いという第六感が働いたのも事実だ。それに、全て事後承諾で済む話でもあった。

 以前、梶山からアポ取りの作法や簡単な社内マニュアルを教わった時のノートを見直した。掘り起こしで下見に行く場合は、ファイリング、バッコード交換、虫喰いパーツの交換など、ちょっとした修理が取れる可能性が高いので、そのつもりで取り組むようにと説明を受けていたのだ。
 ノートを何度も読み直し、鍵盤やアクションのフェルト製のパーツの中で、虫喰いの被害を受け易い部分や、劣化や消耗で交換が必要になる可能性の違いパーツなど、チェックポイントを再確認した。同時に、修理の金額も頭に叩き込んだ。
 スリープのピアノは、トラブルを多々抱えた状態で放置されているケースも珍しくなく、音を出すことさえ困難で、調律が出来ないことも多々ある。もし、運良く調律が可能な状態なら、そのままやればいい。しかし、演奏に支障が生じる故障があれば、その旨を説明して同意を取り、その日は調律を行わずにアクションや鍵盤を持ち帰ることになっている。
 大掛かりな修理には手を出さない特約店でも、数時間〜数日で直せる簡単な修理は、貴重な収入源でもあり、積極的に取っていた。中でも、ファイリングやバッコードの交換、鍵盤ブッシングクロスの貼り替えなどは、興和楽器でも頻繁に行なわれていた。
 響にとっては、初めて修理の仕事が取れるチャンスだ。なので、緊張はしつつも、不安より期待が先行してしまう心境だったのだ。



 お客様宅に到着し、実際にピアノを目の当たりにした響は、予想以上のコンディションの酷さに、露骨に嫌悪の混じった表情を浮かべそうになった。
 ピアノは、『OTTOMEYER』というマイナーなメーカーだが、外装はとても丁寧に美しく作られている。楽器や家具というより、工芸品と呼ぶべきだろう。チーク材の明るい艶消し仕様で、猫脚の曲線美と柔らかい色合いが、上品な高級感を醸し出している。
 また、象牙と黒檀による細かい象嵌ぞうがん細工と美しい装飾で彩られたパネルは、コンパクトなボディサイズと相まってピアノの威圧感を完全に打ち消し、スマートでさり気ない美術作品へと昇華させたかのようだ。お客様の説明によると、これはドイツ製のピアノらしい。
 一方で、二十四年間も閉ざされた箱の中は無惨な有様だ。埃と黴と錆が蔓延し、至る所に虫喰いの跡が見受けられた。その被害は鍵盤だけでなく、アクションにまで及んでいた。
 センターピンは、ほぼ全滅状態だ。弦の錆も酷く、ピッチを正すと断線の恐れがあるだろう。ハンマーも消耗と劣化と虫喰いで、ピアノとは思えない酷い音しか出せなくなっている。しかも、測定しなくても分かるぐらい……おそらく、半音近くはピッチが低下している。
 こういうピアノこそ、本当はオーバーホールを行うべきだろう。興和楽器では勧めてはいけないことになっているが、それは調律師の本能を否定する制限に思えてくる。それに、素直に会社の方針に従い、買換えに繋げる自信もない。第一、こういうピアノが目の前にあると、何とか蘇らせてあげたいという思いが湧き起こるのが、調律師としての普通の反応の筈だ。

 響は、取り敢えず、お客様に詳しく話を伺うことにした。
 柳井啓子という六十代の上品な女性だが、最近長男夫婦が家を建て、幼稚園に通う子どもにピアノを習わせたいと考えているそうだ。たまたまそのタイミングで響が電話を掛けたようで、見るだけでも見てもらおうと考えたとのこと。
 調律依頼というより、先ずはピアノを点検し、使用可能なら長男の家に届けようと考えている、そして、その場合は運送も依頼したい……柳井は、そう話した。これをそのまま興和楽器に報告すると、おそらく営業マンが飛んで来て、言葉巧みに買換えへと誘導するのだろう。
 しかし、響にはそういった話術は備わっていないし、どうしても直して使うという選択肢を黙殺出来なかった。何より、苦労して掘り起こした客を、簡単に営業に引き渡すなんて真っ平だ。

「このピアノ、かなり酷い状態です」
 客のピアノは褒めるように、と梶山から口煩く言われていたが、響はその指示を無視して本音を伝えることにした。すると、どうやら柳井も覚悟していた様だ。
「オーバーホールをして新品のように蘇らせるか、或いは、違うピアノに買換えるか……ピアノが必要でしたら、どちらかでしょうね。これをこのまま使うのは、厳しいです」
 そう正直に伝えると、柳井はオーバーホールと運送の見積もりが欲しいと言ってきた。どうやら、買換えるつもりはないようだ。思い出の詰まったピアノを、可能な限り受け継がせたい……初老の婦人は、強い意志を込めてそう語った。響は、今まさに、絶好のタイミングで絶好のチャンスが訪れた瞬間なのだと悟った。
 もちろん、大きなリスクが目の前に立ち塞がっていることも分かっていた。しかし、それは後からでも対応出来るはず……響は、自分の勘を信じてみることにした。「今日中に作成して、郵送します」と殆んど無意識のまま、返事をしていた。もう、これで引き戻せなくなったのだ。

 もし、上手くオーバーホールの仕事が取れれば、もちろん宗佑に頼むつもりだ。休眠状態の工房とは言え、工具も設備も揃っている。足りないパーツさえ買い揃えれば、直ぐにでも作業に取り掛かれるはずだ。もちろん、響も可能な限り手伝うつもりだし、修理技術の習得にも繋げたい。
 そして、仕上がったピアノは、篠原に見せるのだ。しかも、このピアノは、二十数年前までは篠原がメンテをしていたのだ。そのことを彼女が覚えているかどうかは分からないが、別にそこは問題ではない。大切なのは、宗佑の仕上げたピアノを篠原が気に入るか否か……もし仕事が認められれば、篠原からもオーバーホールの仕事が回ってくるかもしれないし、おそらく気にいるだろうという自信もあったのだ。
 上手くいくと、他の嘱託にも話が及び、宗佑の仕事が増えるかもしれない。そうなると、榊の仕事にも繋がる……見事なWIN-WINの関係が築ける筈だ。
 問題は、興和の顧客のピアノを、どうやって会社や梶山にバレないように処理するか? ……綿密な計画を立てる必要がある。
 見積書を郵送するとは言ったものの、その為には社印を偽装するか、コッソリ事務から持ち出す必要がある。どちらも、法的にアウトだろう。書式は、市販の用紙に手書きで記入するしかない。契約書も同様の手口で乗り切れる。ただ、見積書を確認後、会社に断りの電話が入ると都合が悪い。響個人の携帯電話に連絡するように、念を押しておく必要がある。

 もう一つの難点は、響の家庭事情を、少なくとも榊にはオープンにしないといけないことだ。父親が個人事業主のピアノ調律師で、自宅に修理工房まであることを響は隠し通してきた。良くも悪くも好奇の目に晒される気がしたし、開店休業状態の父の存在を恥じていたのだ。しかし、オーバーホールを行うとなれば、自宅工房以外の作業場は思い付かない。
 いずれにせよ、相談出来る人はしか榊いない。運送も頼まないといけないし、他にも色々な知恵が必要だ。そして、きっと榊なら、何とかしてくれるに違いない、という信用もあった。
 幸いなことに、この日の響は、午前中を休みとして申請していた。柳井宅を訪問したことは、昨夜急遽決まったことなので、元々事後報告で処理しようと考えていた。つまり、まだ誰にも話していない。動くなら今しかない……響は夜のアルバイトまで待てなかった。
 兎に角、早い方が良い気がした。なので、柳井宅を出るや否や、榊に電話を掛けた。寝起なのか眠たいのか、受話器越しに聞こえる声はとても不機嫌だったが、響の気迫に押されたのだろうか、今から事務所で会う約束を強引に取り付けることが出来た。

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