見出し画像

羊の瞞し 第4章 EGOISTICな羊(3)

前話目次

(3)皆んなエゴイスト


「アキさんは、ピアノ業界には戻らないのですか?」
 しばらく黙り込んだまま、ロックのウイスキーを飲み続けている榊は、今度は間違いなく酔っている。なので、響はタイミングを見計らい、これが最後のつもりで願望を込めた質問をしてみた。すると、意外な話へと展開されていくことになった。
「戻るも何も、今も繋がってるさ。裏ルートだけどな。木村ともずっと連絡取り合ってたし……アイツ、ヘマしたみたいだな。運が悪いと言うか……夜逃げしたそうだぜ」
「ご存知だったんですか?」
「何のことだ? 夜逃げのことか? それとも、木村がクビになったことか、その理由のことか……まぁ、全部知ってるけどな」
「木村さんが何をしていたかってこともですか?」
「カードの裏工作だろ? そんなもん、手口は色々だけど、嘱託は皆やってるさ。それにな、木村の手口は俺が教えたんだよ。こうすれば客取れるんじゃない? ってアイデアをな。実際にやるかやらないかは、俺の知ったこっちゃない」
 いくらなんでも、それでは余りにも無責任過ぎる気がした。咎めるつもりはなかったものの、つい響は口を挟んだ。

「でも、木村さんはその所為でクビに……」
「俺のせいだと思うか? まぁ、ある意味ではそうかもな。でも、木村は嘱託になった時点で詰んだんだよ。確かに、最初の数年は良い思いしただろうけど、続くわけないことは最初から分かり切ってた。これは、結果論じゃない。現に、俺は反対したんだぜ。嘱託に新規は回ってこないし、諸経費も自己負担。カードは減る一方。個人の顧客を増やそうにも、アイツの性格じゃ難しい。案の定、僅か数年で苦しみ始めて、挙げ句がこのざまだ」
 榊の考えは、梶山と驚くほど似ていた。
 木村には申し訳ないが、目先の利益に惑わされ、長期的な視野のない短絡的な人と、様々な環境条件を冷静に分析し、将来的な展望を読める人との差なのだろう。全くタイプの違う榊と梶山だが、二人共、間違いなく後者なのだ。そして、残念ながら、宗佑は前者だろう。

「ちなみにな、間接的には響の所為で苦しんでたところもあるんだぞ」
「え? ……僕の所為?」
「そうだよ。七月に教室の三十台、お前が全部やったんだろ? アレもな、単価は下げられるけど木村にとっては美味しい仕事だったんだ」
 そう言えば、教室のピアノの殆んどに、木村のサインが書いてあったことを思い出した。
「ここ数年、少なくとも三ヶ月に一度、木村にはまとまった仕事が入ってたんだ。それを、お前に取られたんだから堪ったもんじゃないよな。年間120台も仕事がなくなったんだ。フリーの調律師には痛いだろうな」
「そんな……僕が木村さんから仕事を取ってたなんて、思ってもなかったです」
 間接的とは言え、自分が木村の仕事を奪ったことになる事実に、響は戸惑い、申し訳ないような気持ちになった。
「響が悪いんじゃない。会社からすると、嘱託に頼むと金が掛かるんだよ。そりゃ、教室の備品だから単価は一般調律の半分ぐらいだろうけど、全部グランドだろ? 一台につき五千円ぐらいは払うんじゃないか? 三十台だと十五万円、年間で六十万円か。それなら、計算するまでもなく、基本給の安い響に勤務時間内にやらせた方が得に決まってる。ベテランの社員はダメだ。基本給が高いから、一般家庭の調律で稼いで貰わないといけないからな。要するに、新人社員、嘱託、ベテラン社員って序列があるんだよ。たまたまこの数年は、新人調律師の採用がなかったから木村に依頼が回ってただけだ。なのに、そんな当たり前のことに気付かずに、何の想定も対策もしてこなかった木村が悪いんだよ」
 確かに、榊の言う通りだろう。客観的に見て、会社の選択も当然だし、嘱託ならそれぐらい覚悟しておくべきなのだろう。
 分かってはいても、自分がその当事者となり木村を苦境に追い込んだという事実は、少なからず響を苦しめた。

「……話が逸れたけど、ピアノ業界に戻らないのか? って質問だったよな? さっきも言ったけど、今も繋がってるさ。木村は、移動の依頼があれば、それが興和の客でも俺に頼んでたぜ」
「どういうことですか?」
「興和楽器の運送屋……って、俺もついこの間まで働いてた橘ピアノ配送センターのことな、あそこにUPの県内移動を頼むとな、興和楽器を通すと二万円なんだ。でも、木村には一銭も入らない。なので、俺は個人的に木村に頼まれた時は、八千円で請けてあげてたんだ」
「アキさんが一人で運ぶのですか?」
「ははっ、んなわけねぇよ。あんなもん、一人じゃ運べないから、木村本人に手伝わせてたさ。アイツが客から幾ら取ってたのか知らないけど、小遣い稼ぎにはなってた筈だ。勿論、興和の利益を奪ってる罪悪感も、橘ピアノ配送の仕事を横取りした罪悪感もない。結局、一番得するのは客だし、興和も橘も損するわけじゃないからさ、ま、俺たちのエゴかもしらんけどな」
「それって、興和楽器にバレたら、ヤバイことなんですか?」
「そりゃあ、ヤバいだろうな。運送でもな、興和の客は興和に依頼するのが筋ってもんだ。多分、そういうことは嘱託契約書にも明記されてるさ」
「でも、なんで興和楽器に依頼するんですか? 直接橘ピアノ配送に頼んだ方が手っ取り早いような……」
「そうか、まだその辺のカラクリ、教えてもらってないんだな。興和楽器と橘ピアノ配送センターは業務提携しててさ、橘は興和の運送を全て独占する条件との引き換えに、一般客からの直接の依頼は請けないことになっているんだ。全て興和が元請けになって橘に依頼して、35%のバックマージンが支払われる契約だ。県内移動だと、一件当たり客からは二万円取るけど、興和に七千円マージンが入ることになる。興和にとっては、運送も立派な仕事なんだよ。むしろ、電話だけで一件当たり数千円入ってくるから、美味しい業務なんだ。なのに、嘱託が運送を依頼しても、全く手当が貰えず、興和の利益にしかならない。だからって、嘱託が他所の業者に手配したらそれこそ背徳行為と取られるんだ。でもって、内密に俺に相談してたってこと」
「そんな裏事情があったのですね……」
「そもそもが、身勝手で傲慢な取決めなんだよな。興和が嘱託にも幾らかマージン渡していれば、わざわざこんなリスキーなこと、誰もしないだろうに。もっとも、そのおかげで俺も木村もお客さんも、皆んなが得するんだけどな」
 響は、運送が調律師の売上げに貢献しているなんて、全く想像すらしていなかった。なので、榊が説明してくれた具体的な金銭の動きは、正に寝耳に水の話だ。新たな学びでもあるし、驚きでもあった。

「でも……それって、アキさんもヤバくないですか?」
「確かにリスクはあったかな。特に、以前は会社のトラックをなんだかんだ理由を付けて、拝借しないといけなくてさ、多分、怪しまれてたんじゃないかな。もっとも、その頃は年に一〜二回しかなかったけどな。でも、今使ってるユニック付きのトラックあるだろ? 今日パンクしたヤツ。あれさ、実は五年前に自分で買ったんだ。そういう仕事が増えてきてたし、ピアノに限らず、俺も個人的にコッソリ他所から仕事請けてたからな」
「それはそれで、会社にバレたら不味いんじゃないですか?」
「俺の場合は、またちょっと違うんだ。バレるも何も、俺は橘ピアノ配送センターの正社員じゃなくて、書類上はアルバイトだったんだ。社員より偉そうにしてたけどな。だから、自分のトラックを買ってからは、木村の仕事も何もコソコソする必要なんてないけどさ、だからって、おおっ広げにすることもないだろ? それにな、木村だけじゃなく篠原さんも俺に依頼してるんだぜ。俺は良くても、二人はバレたらヤバイからな、コソコソやるしかないんだ」

 篠原は、梶山が学生時代の先輩だと言っていた、興和楽器のベテラン嘱託調律師だ。とても生真面目そうに見える女性調律師で、主婦でもあり、確か響より年上の息子もいたはず。
 しかし、彼女も木村と同じように興和楽器の規約に反し、運送の仕事は横取りしていたということだ。
「篠原さんなんて、五十前後のおばさんだろ? 自分じゃ手伝えないから、木村に手伝わせてんだぜ。もっとも、アイツ、幾らで請けてたのか知らないけど、喜んで請けてたな。多分、篠原さん本人には数千円しか入らないはず。それでも、興和に頼んだら0だからな、それよりはマシだろう」
「そんな……篠原さんなんて、ご主人も会社の経営者ですよね。何もわざわざリスクを犯すこともないような気が……」
 すると、榊は微かに笑みを浮かべ、更に想定外の話を教えてくれた。
「そうだよな、運送だけならたかだか数千円だもんな。でも篠原さんの凄いところはな、運送のついでに必ず他の仕事も取ってくることだ」
「え? ……あのぉ、意味が分かりません」
「移動と言ってもな、そのまま送り届けるんじゃなくて、一旦篠原さんのご自宅の倉庫に入れるんだ。で、クリーニングとかさ、何らかの作業をしてから届ける。客には作業代も請求するんだよ。その辺が彼女の凄いところでな、どうせピアノを動かすなら、ついでにその時にしか出来ない作業もやっておきませんか? って上手く話をまとめるんだ。それこそ、営業センス抜群の人だよ。運送に紛れて、インシュや椅子もよく売るしな。篠原さんにとっては、運送は美味しい仕事なんだぜ。それを真面目に興和を通してやってたら、運送のマージンが入らないどころか、作業も出来ないし、小物販売も吹き飛ぶわけだろ? そりゃ、多少のリスクぐらいは目を瞑るって」

 榊は、他の嘱託調律師の噂についても、色々と教えてくれた。木村のように興和の客を取るのは当たり前で、中にはこっそり他店の嘱託を兼ねている人もいた。バレてないだけで、不正を働いていたのは木村だけではないのだ。
 逆に言えば、真面目に興和に尽くしているようでは、嘱託調律師はやっていけないのだろう。会社の為ではなく、自分の為を優先する。よく考えたら、当たり前の話だ。そうしたところで、梶山のような安定は担保されないのだから、皆必死に仕事を取るのは至極当然な話だ。
 しかし、宗佑はどうだったのだろう? 嘱託よりも、もっと不安定な自営調律師だ。なのに、ガツガツと仕事を取ってくる気概のようなものは、一切感じられない。リスクを犯すこともなく、自分から動くこともない。
 おそらく、宗佑には調律師の理想像しか見えていなかったのだろう。榊のような観察眼が少しでもあれば、違った調律師人生を歩んだのかもしれない。社員調律師を継続し、梶山のようなポジションに収まっていたかもしれないし、榊のように早々と見切りをつけ、別の道を歩んだかもしれない。
 沢山の可能性があった中で、響には、宗佑が、まるで苦行に挑む僧侶のように、一番困難な選択をしたようにしか思えなかった。でも、残念ながら僧侶のような信念もなく、根性も忍耐もない。自分を律することも不得手だ。その上、エゴも強欲さも行動力も欠けていた。ただ生真面目なだけで、調律師としての技量だけは誰よりも優れているのに、調律師には一番不向きな人間なのだ。

「響もさ、金が要るんだろ? 外回りをしてると、時々運送の手配を頼まれることもあるはずだ。もし、小銭稼ぎたければ俺に相談しな。もちろん、会社の規則を優先したければそうすればいい。リスキーなことは無理強いはしないよ。自分で判断しな。俺は、県内移動は八千円で請けてるからさ、自分で手伝うなら客には好きな金額を提示すればいい。差額がお前の取り分になる。もし自分で手伝えないなら、こっちでバイトを一人雇うから五千円追加だ。仮に一万八千円で取っても、何もしなくても五千円はお前のものだぜ」
 そう言われても、なかなか実感のない話だ。会社にバレたら……と心配になる以前に、まだ空を掴むような話でどうすべきかなんて響には全く分からない。

「もしそんな機会が本当にあれば、その時に真剣に考えます」
 これが、今の響に出来る、精一杯の返答だった。

(次へ)