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羊の瞞し 第4章 EGOISTICな羊(4)

前話目次

(4)運送のバイト

 きっかけは意外と直ぐに、思わぬ形で訪れた。
 いつものように、終業後、榊の事務所を訪れた響は、そこで意外な人物とばったり会ったのだ。

「あら、響君、お疲れさま」
 親しげにそう声を掛けてきたのは、興和楽器の嘱託調律師である篠原久子だ。一瞬、会社に内緒のアルバイトがバレたのか、と焦ったが、篠原も榊に運送を頼んでいることを思い出した。
「おぅ、響、お疲れさん」
 榊が奥の倉庫から顔を出し、響も挨拶を返した。
「なぁ響、興和楽器って月曜定休だろ? 来週の月曜日、予定入ってるか?」
 榊に聞かれ、響は慌てて手帳を確認した。確かに月曜日が定休日だが、それはショップの話だ。外回りを行う調律師にとって、休日はあってないようなもの。
 興和楽器では、一応「週休二日制」を採用しているが、調律師は自己申告のシフト制で、二日分までは休んでもいい、というアバウトな勤務体制だった。尚、「完全週休二日制」と「週休二日制」は全くの別物であることを、響は最近知ったばかりだ。残念ながら、興和楽器は「週休二日制」だった。
 興和楽器の調律師の就業シフトは、一日を9:00〜12:00、13:00〜16:00、16:00〜19:00の三つのシフトに区切り、週に最大6シフト分休みを取ってもいいことになっていた。中でも、月曜日は終日休みにする調律師が多い。ショップだけでなく事務も閉まってるので、何かと不便だからだ。
 だが、月曜日指定のお客様も意外と多く、終日休みには出来ないこともある。要は、ランダムに6シフト分休めるのだが、消化出来ないことの方が圧倒的に多いのだ。

「来週は、午前のシフトだけ調律入っちゃってますが、午後はずっと空いています」
 そう伝えると、榊は篠原に「午後でも大丈夫ですかね?」と何やら確認していた。篠原が軽く頷くと、「響、午後から一台ピアノを運ぶから手伝ってくれるか?」と榊は言った。
 間髪入れず、篠原が後を継いだ。
「木村君がいなくなったでしょ? だからね、これからは響君に手伝って欲しいの。四千円でどうかしら? それとね、二週間後にもう一度運ぶから、予定を空けといて貰えると助かるわ。もちろん、その時にもまた四千円お支払いするわよ。どう? やってくれる?」
「篠原さん直々のご指名だぞ。もちろん手伝うよな?」
 二人から畳み掛けられ、響は冷静な判断も出来ないままに引き受けてしまった。
「でも、僕、ピアノを運んだことないですよ」
「そんなもん、木村でもやってたんだぜ。俺の言う通りにやれば、どうってことないさ」
「響君なら、木村君よりずっとパワーありそうだもんね。しかも、若いから大丈夫よ」
「……やらせて頂きますけど、自信ないっすよ」



 篠原の依頼で行ったピアノ運送の経験は、後々の響に多大な影響を与えることになった。
 響にとって初めてのピアノの運送は、幸いなことに、搬出はスムーズに済んだ。ピアノは小型のアップライトで、ゆとりのある搬出経路も確保出来、段差も少なかった為、大した労力も特殊な技術も必要なく、榊の指示に従うだけの簡単な作業だった。
 ピアノは、そのまま篠原の自宅に運び込んだ。自宅の庭に立てたプレハブの簡易倉庫を、篠原は自分の工房として使っているようだ。宗佑の工房と比べると、とても小さく設備も整っていない。塗装や張弦などの大掛かりな修理には対応出来ないだろう。しかし、内職的な修理で使う分には、十分だ。このピアノも、外装クリーニング、ファイリング、整調だけを行うそうだ。
「素敵な工房をお持ちだったんですね」と話し掛けてみると、篠原は「簡単な作業しか対応出来ないけどね」と言った。
「オーバーホールとかの仕事って、どうすればいいのですか?」と響は純粋な疑問として質問した。
「基本的に、興和楽器はオーバーホールはやらないわ。しないといけないような状態なら、買換えを勧めることになってるし、もしお客様からどうしてもって言われても、出来る人もいないし、設備も何もないじゃない。メーカーに丸投げするそうよ」
「梶山さんは、やらないのですか?」
「梶山君? 出来るわけないじゃん! 彼はね、整調と整音は上手いけど、修理なんか全く出来ないわよ」
「えっ! そうなんですか? 何でも出来る方だと思ってた……」

 篠原の話では、現在の特約店には、大掛かりな修理が出来る調律師なんてまずいないとのことだ。
 昔は、手作りメーカーや修理工房なので研鑽を積んだ調律師も多く、何処の特約店にも修理の出来る調律師が在籍していたそうだ。しかし、ピアノの爆発的な普及を背景に、メーカーも販売店も外回りを行う調律師が大量に必要となり、調律師を養成する学校も増えた。短期間で最低限のことを詰め込まれた調律師には、修理を学ぶ時間もノウハウもなかったのだ。
 また、ピアノを売ることを第一義とする業界において、今となってはメーカーや販売店にはオーバーホールを行うメリットはほとんどないのだ。
 つまり、薄利なのに時間が掛かり、設備も必要でリスクも大きいオーバーホールより、買換えを勧める方が圧倒的に得策という判断だろう。

「篠原さんも、オーバーホールはしないのですか?」
「私はね、出来るものならやりたいわ。でも、ここじゃ、とても無理だし、そもそもそんな技術もないし。なもんで、浜松の工場に外注出してる」
 響は、急に思い付いたことがあり、一か八か篠原に聞いてみた。
「もしオーバーホールの仕事が入ったら、僕に任せて頂けませんか? って言うか、僕には出来ませんが、知り合いにオーバーホールのスペシャリストがいるんです。彼にやらせて、僕も学ばせてもらおうかなって思ったんですけど……無理ですか?」
 そう告げると、篠原は一笑に付した。
「無理無理! 響君、オーバーホールってそんな簡単なことじゃないわよ。オーバーホールって言いながら、クリーニングしかしない人もいるのよ。そういう類じゃないの?」
「違います。フレーム外して響板とかフレームを塗り直して、アクションもドイツ製に付け替えて、塗装まで出来る方です」
「本当に? そのスペシャリストってこの地方の方? 私の知る限り、今も現役でやってる修理の技術者って思い当たらないけど……昔はチラホラといたんだけどね……でも、そうねぇ、それだったら、一度その方の仕上げたピアノを見てみたいわ。仕上がりによっては、お願いするかもしれないし」
「そうですか……う〜ん、何とかお見せ出来る方法を考えてみます……」
 何か良い案はないかと考え込む響に、榊が声を掛けた。
「おい、響、いつまでグダグダ喋ってんだ! そろそろ帰るぞ! じゃあ、篠原さん、うちらはこれで失礼します。こいつの納品は、再来週の月曜日で良かったですよね?」
「えぇ、それまでには仕上げておきますので、よろしくお願いしますね」
「こちらこそ、いつも助かります」
「松本君もありがとう。あと、さっきの話、本気だったら考えといてね」



 篠原との約束を果たす方策を考えるも、何も思い付かないまま十月に突入した。入社して、あっという間に半年が経過したことになる。これほど濃密度に凝縮された月日は、過去に経験がなかった。社会人一年目って、誰もがこんな感じなのだろうか……そんなどうでもいいことに思案を巡らせるのも、随分と久し振りに感じた。
 しかし、今月からは更に忙しくなる予感があった。響は、予想通り教室の調律を行うように命じられたのだ。
 ただ、七月の時とは違い、今は外回りもしている為、せいぜい十台ぐらいだろうと予想していた。なのに、幸か不幸か、またしても三十台全部やるように命じられたのだ。
 響は、前回の悪夢を思い出しつつも、今回はもっと上手くヽヽヽやれる自信もあった。残念ながら、「上手く」は「巧みに」ではなく、「要領よく」の意味だ。多少の手抜きも覚えたし、仕上がりの水準もあの程度で良いという目安を知り、それらを活かせられると考えていたのだ。それこそが大手特約店の社員の仕事なのだと、諦めに近い感覚で納得するようになっていた。
 想定外だったのは、今月は教室の三十台を実施すれば外回り調律はやらなくていいのかも、と少し期待したのに、どうやらそんなに甘くなかったことだ。
 備品調律も実施台数にカウント出来ると聞いていたが、厳密にはそれは半分間違っていた。備品の場合、一台を0.5台とカウントするそうだ。つまり、全部やっても実績は十五台となる。となると、やはり残り十五台は外回り調律を組まないといけない。合計四十五台……アポ取りの手間が減るメリットと引換に、実施台数は増えるのだから、楽なのか大変なのか見当も付かなかった。

 木村もここ数年、この時期はレッスン室を担当していた為だろうか、十月分の定期カードは少なかった。まだアポ取りが未熟な響は、定期カードからは五件しか組めなかったのだ。なので、不定期や繰越のカードを片っ端から電話掛けしたものの、とても十五台には届きそうになかった。
 最後の望みは、スリープの掘り起こしだ。ただ、九月には二十件ぐらいスリープを掘り起こしたが、実施に繋がったのは0件だった。既にピアノを所有されてない方も四〜五件あったし、一方的に電話を切られた家もあった。なので、あまり手応えはないのだが、他に有効な手立ても見つからない。いっそのこと、思い切って、スリープの中でも特に古いカードを掘り起こしてみることにした。
 すると、もう二十年以上も眠っているカードが、チラホラと出てきた。中には、最終実施から三十年以上経過しているカードも何枚か見つかった。流石にそこまで古いと、なかなか電話が繋がることさえ稀だ。既に転居されたのだろうか、違う名前の方が出られることもあった。ようやく繋がった一件も、もう何年も前にピアノは処分したとのことだ。
 やはり、古過ぎるカードだと無理なのかな、と諦めかけた時、ようやく一件のアポが取れた。しかも、明日にでも来て欲しいと言われたのだ。何という幸運だろうか。翌日の午前中のシフトは休みを申請していたが、そんなことお構いなしに、響は午前中に訪問する旨を伝え、了承を得た。
 改めてカードを確認すると、買収される前の愛楽堂の顧客で、何と二十六年振りの調律になるようだ。そして、当時メンテナンスを行っていた調律師のサインを見ると、菊池と書いてあった。
 菊池……どこかで聞いた名前だな……と響は思ったが、直ぐに思い出した。確か梶山が篠原のことをそう呼んでいたことを。
 どうやら、彼女が独身の頃に担当していたピアノらしい。何かが動き始めそうな予感がした。

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