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羊の瞞し 第3章 REALISTICな羊(9)

前話目次

(9)ピアノのカルテ


「終わったらどうしましょうか?」
「そうだな、窓を全部閉めて照明を落とし、ドアの鍵を掛けて音楽室に来てもらおうか。扇風機は、コンセントを抜いてコードだけまとめといてくれ。音楽室は、さっきの職員室の校舎の四階の端っこだ。来れば分かる……しかしさ、学校の音楽室って、何故最上階の角部屋って決まってるんだろうな。この歳になるとな、四階まで階段で上がるのも足腰にくるのに、道具を運び込むにはちょっと辛いんだ」
 梶山にしては珍しく、冗談めかした軽口を叩いた。興和楽器では、学校調律の際は、通常の工具以外に携帯用の掃除機を持ち込むことになっている。そのことを、軽くとは言え自虐ネタにしてくるなんて、全くもって梶山らしくない。ひょっとしたら、機嫌が良いのかもしれない。

「そう言われてみると、僕が通ってた学校も全部最上階の角部屋でした」
「ほとんどの公立学校は、そうみたいだな。音対策だとしたら、逆の方が良いのに、まぁ、役所仕事の思い込みなんだろうな」
「逆ってどういうことですか?」
「音は、基本的には上から下に流れるからさ、俺に言わせれば、音楽室は高い所より低い所にある方が周りの教室や周囲の住民の迷惑にならない筈なんだよ。それに、楽器の搬入も一階の方が安く済むのにな。なのに、間違った思い込みで、高い階の角に押しやられて、俺たちが苦労する羽目になってるんだ」
「そうなんですね……」
「ま、そんなことはどうでもいいか。そろそろ仕事に取り掛からないとな」
「やっぱり、調律は一時間を目安でやらないとダメですか?」
 梶山の機嫌が良いことを予想して、恐る恐る聞いてみた。
「バカ、外の仕事ではそれなりに時間を掛けるんだ。手抜きと思われるだろ。でも、時間を掛け過ぎてもサボってると勘違いされるんだ。二時間ぐらいが丁度いい。調律に二時間って意味じゃないぞ。外装磨きと掃除を念入りにやってくれ。それと、仕事中は上着は脱いでいいぞ。ネクタイも外せ。その方が、一生懸命やってるように見えるんだ」
 こういう話を聞いていると、やっぱり梶山は調律の質や仕上りよりも、見た目やポーズといった営業スキルを重視しているんだな……と再確認出来た。
 経験豊富で顧客からの信頼も厚い梶山は、おそらくは宗佑の言う通り、技術レベルも相当高いに違いない。本能的には、もっとスキルを活かし、目の前のピアノを少しでも良くしたい願望もある筈だ。
 しかし、その欲望を封印し、調律師として生き抜く知恵の結晶として出来上がったスタイルが、今のやり方なのだろう。果たして、それは梶山の望んだ調律師の姿なのだろうか……その辺は疑問だと思った。少なくとも、最初からそれを望んで調律師を志す人は、ほぼいないだろう。
 理想と現実。希望と実務。ひょっとしたら、梶山は相反する狭間で生きているのかもしれない。だとすれば、正社員の地位にしがみつき、安定を選択したことと引き換えに、失ったものも沢山あるに違いない。
 ほんの少しだけ、響は梶山に同情した。

「あ、お前外回り初めてだよな? 終わったら、調律カードにちゃんと記入しておけよ。書き方は履歴に倣えばいい。見れば分かる」
 そう言い残し、梶山は音楽室へ向かった。一人残された響は、仕事に取り掛かる前に、まずはオーソドックスな手順に則り試弾してみることにした。
 ピアノは、KAYAMA製の2mを超える大型のグランドピアノだ。機種を確認すると、スペックが頭に蘇る。四月の座学のおかげだ。確か、この機種は三十五年程前に発売され、二十五年ぐらい前まで作られていたはず。響の私見に照らし合わせても、製造から三十年以上は経っているように見える。製造番号から製造年を正確に割り出す表も持ち歩いているが、そこまで調べる必要性も感じない。多少の誤差があったところで、まだまだ使用可能なピアノには違いない。だが、学校の体育館という特殊な環境に晒されたピアノは、中も外も激しく傷んでおり、とても現役で使用されているとは思えないような風貌だった。
 とりあえず、半音階で全鍵鳴らしてみた。タッチは、重いというより硬い感じだ。しかも、不揃いな為、粒を揃えた演奏は求めてはいけない状態だ。強弱のコントロールは諦めるしかない。特に、ピアニッシモは無いものと考えるべきだろう。もちろん、高速の連打やトリルも不可能だ。
 続いて、調律の検査音程と呼ばれている様々な和音を鳴らしてみるが、音に関しては意外と狂っていないことが確認できる。褒められた場所ではないとは言え、何十年も同じ環境にて調律を繰り返した為、張力バランスだけは安定しているのだろう。

 屋根を開き、外装を外した響は、内部のポケットに収められている調律カードを取り出し、メンテナンスの履歴を見た。すると、このピアノは29年前に納品されたことが分かった。響の大凡の予想は、ほぼ正解だった。だからと言って、何もご褒美なんてないし、もし梶山に言っても、それぐらい分かって当たり前だ! と一蹴されるだけだろう。
 再び、調律カードに目を通す。日本の調律業界では、メンテナンスを実施した調律師はハガキサイズの調律カードと呼ばれる紙に、実施日と作業内容、そして担当者のサインを記入し、ピアノ内部に保管しておくしきたりがある。そのカードの記録によると、このピアノは毎年夏休み期間中に調律を重ねてきたようだ。
 ここ七年は、毎回木村のサインが手書きで書かれてある。その前は、六年続けて梶山のシャチハタが押してあった。サインが手書きじゃない調律師は、梶山だけのようだ。梶山は、十年ぐらい通ってるようなことを言っていたが、実際は十四年目ということだろう。それ以前は、毎年のように担当者が変わっていたようだ。知らない名前も多いし、興和楽器の嘱託調律師の名前もある。S.Kというイニシャルだけの人もいれば、乱筆で読めない字の人もいる。
 響は、じっくりと調律カードを見ていた。すると、丁度二十年前の欄に全く予期せぬ名前に出くわした。まさか? とは思ったものの、フルネームでサインしてあったので、まず本人に間違いないだろう。
(そうだったんだ、アキさんって元は調律師だったんだ……)
「榊昭人」と丁寧な字でサインされているのを見て、響は心底驚いた。

 そして、ずっと興和楽器でメンテされているピアノだと思っていたが、どうもそれも違っていたことが判明した。
 調律カードは患者のカルテ……とよく言われるのだが、これは単なる比喩ではなく、まさにその通りの役割を果たしている。そのカルテによると、このピアノを納品した業者は、「愛楽堂」という聞いたことのない楽器店だ。納入調律から最初の数年は、同じ調律師が担当していたらしい。残念ながら、これまた読めないサインが書かれている。アルファベットの筆記体を崩したサインで、頭文字すら読み取れない。NかMかWっぽいのだが、その先は全く分からない。
 しかし、その調律師は毎回様々な調整を試みていたようで、詳細な記録を記していた。他の調律師は、A=441Hzと書いているだけ(それすら書いてない人もいる)だが、この調律師だけは毎回のように作業内容を書き込んでいたのだ。

「打弦距離47で揃える」、「高音レットオフ1.5mmに」、「ダンパー総上げ、Wダンパーをカット」、「働き微調整、黒鍵あがき」、「スプリング(弱→強くした)」、「鍵盤フロント調整」、「Bホール(スティック)」、「ならし/あがき(微調整)」、「バックチェック調整(くわえ角度修正)」……など、整調の行程名と詳細を細かく書いてあった。楽器店勤務の調律師で、しかも入札制度の学校調律で、これほど丁寧な作業をする人は珍しい。いや、それを許容する楽器店が珍しいと言えるだろう。もしかすると、この楽器店なら響が漠然と望んでいるような「調律師の形」が見出せるのでは? と希望を見出せる気もした。
 愛楽堂とは、どんな店だろうか? 梶山に後で聞いてみよう……響は、湧き上がった興味に一度蓋をして、調律に手をつけ始めた。

 梶山に言われた通り、上着を脱ぎネクタイを外すと、スッと身体が楽になるのが分かった。快適とまではいかないが、八月下旬とは思えない程度には涼しく感じる。それほどピアノに不適合な環境には感じないが、今この瞬間を切り取っただけでは設置環境の判断は難しい。
 実際の所、さほど狂ってないはずの調律は、予想以上に難航した。アクションの動きが鈍く、細かい連打に反応しないキーもあり、何本かはセンターピン交換も行った。それでも、音色もバラバラなので、思うようなペースで進行出来なかったのだ。やはり、環境に起因するトラブルを、多々抱えているのだろう。
 また、チューニングピンの感触に粘るような嫌なクセがあり、響の技量では調律の作業そのものに難儀してしまう。結局、適当に終わらすつもりの調律が、九十分以上も掛かってしまった上に、大して出来も良くはない。
 ただ、ポジティブに捉えるなら、自身最高の調律からは程遠くても、何とか時間内に終わらせることは出来そうだ。適度に手抜きしつつ、それなりにはまとめた。
 本当なら、ここからタッチの改善の為の修理や調整も行いたいし、音色も綺麗に揃えてみたい。しかし、響の今の力量では、理想を語る前に調律だけで精一杯だと認めるしかない。梶山の言う通り、これは練習ではなく仕事なのだ。
 そこから、響は大急ぎでフレームや棚板の掃除を始めた。そして、外装を徹底的に水拭きし、ワックスを塗り込むと、ボロボロなりに明らかにサッパリと綺麗になった感じになる。なるほど、これなら見た目だけで喜ばれるというのも分かる気がする。
 といっても、このピアノが持つ本質の部分は、多少音合わせが揃ったぐらいで何も変わっていない。でも、ぱっと見がこれ程変わると、仕事は評価されるのだろう。逆に言えば、調律師の評価なんてその程度の基準で測られるのだ。調律師は、よく医者に喩えられるのだが、美容師の方が適している気がしてきた。

 カードに記入し、外装を取り付けると、館内全部の窓を閉め施錠した。律儀に二階通路の窓まで開けてくれていたので、舞台裏から階段を上がって閉めに行かねばならなかった。それからピアノに戻るとカバーを掛け、工具を片付けてネクタイを締め直すと、急に身体が汗ばんできた。窓を閉め切ると、ものの数分で蒸し風呂状態になるようだ。なるほど、これだとピアノに良いはずはない。アクションがスティックするのも当然だ。
 梶山の見よう見真似で出入り口横のパネルを開き、照明を落とした。そして、スリッパを所定の場所に戻し、梶山が作業している音楽室へと向かうことにした。響の胸中には、期待と緊張と嫌気が混在していた。

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