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羊の瞞し 第3章 REALISTICな羊(8)

前話目次

(8)体育館のピアノ


 岩成中学校に時間通りに到着すると、梶山は既に車を降りて待っていた。「すみません」と言うより早く、1時って聞いて本当に1時に着いてどうするんだ? と皮肉られた。確かに、少しぐらい早く到着するべきだったかもしれない。一瞬ムカつきはしたものの、何気なく外回りのちょっとしたノウハウを教えてくれる梶山には感謝しないといけないだろう。
 確かに、響に対する言葉の選択や、コロコロと豹変する態度など、パワハラっぽい側面も否めない梶山だが、基本的には正しいことを言っている上司かもしれない。実際に、今度からは気を付けようと思うだけでも成長に繋がるのだ。

「木村のことは聞いたか?」
 歩きながら、梶山が話し掛けてきた。木村とは、例の横領が発覚した嘱託調律師だ。響は、何も知らない風に装うことにした。誰に聞いたんだ? と聞かれるのが面倒だったからだ。
「木村さんがどうかされたのですか?」と逆に質問を返すと、梶山は、「アイツとの嘱託契約は破棄した。要はクビだ」と吐き捨てた。予め聞いていたものの、知らないフリをした手前、それ以上聞くべきか悩んだ。とりあえず、驚く素振りを見せ、「そうなんですか……」と言葉尻を濁しておいた。そうすると、梶山が勝手に喋ってくれるかもしない……。
 案の定、梶山は響が聞きたかったことを話し始めた。
「アイツ、うちの客をコッソリ取ってたんだ。たまたまスリープを掘り起こしてたら、ある客がさ、毎年木村さんにやって貰ってますよって言うもんで、即アウト」

「スリープ」とは業界用語で「スリープカード」のことを言い、要はピアノを保有したまま調律をしなくなった客を意味する。調律する意志のない人に、毎年電話を掛けても迷惑でしかない。翻意を促し調律の実施に繋げるよりも、反感を買う可能性の方が高いと判断すると、スリープカードとして管理されるのだ。
 スリープの客には、数年に一度、気まぐれのように探りの電話を入れることになっている。このことを「掘り起こし」と言う。家庭環境の変化や子どもの結婚などで、再度ピアノの使用を検討している場合もあるし、その電話を機に、買取に繋がることもあるのだ。
 また、既にピアノを手放しているケースもある。その場合は、顧客リストからも完全に消去すべきなので、「掘り起こし」は顧客管理の整理という点でも役に立つのだ。
 もちろん、現状維持のケースが多いのだが、何らかの仕事に繋がる可能性がある掘り起こし作業は、調律師の重要なデスクワークに位置付けされている。

「でも、木村さん、何故スリープに入れたんでしょう? 絶対バレるじゃないですか」
 率直な疑問を梶山にぶつけると、お前、よく気付いたな、と具体的に話してくれた。
「アイツ、本当はスリープじゃなくて休眠にしてたんだ。カードにはハッキリと休眠って書いてたよ。でも、事務員が間違えて、スリープの棚に入れちゃってたみたいでな。俺も、普段は皆んなに、絶対に休眠には電話するな、と口煩く言ってるクセに、完全にスリープって思い込んでたからさ、よく見たら休眠って書いてるのに気付かずに電話しちゃったんだよ」
「なるほど……ってすごい悪質じゃないですか。木村さんってそんな人だったんですね。何か、すごいショックです」
 休眠とスリープなんて語学的には同じような意味だが、ピアノ業界では——いや、厳密には会社により多少の呼び方の違いは生じるが——もう一切調律をしない、若しくは、一切電話を掛けないで欲しい、という意思を明確に表明した顧客のことを休眠と呼んでいる。
 つまり、休眠はスリープよりも更に調律の実施から遠のいた顧客のことで、簡単に言えば、縁を切られた客と言えよう。そして、トラブル防止の為、休眠の客にはこちらからの電話掛けを禁止しているのだ。
 それでも、記録カードは保管しておく必要がある。実際、休眠の方から数年振りに連絡が入り、再び定期顧客になったケースもあるのだ。或いは、買取の査定を依頼されることもある。どちらの場合もカードが残っていると、機種や製造番号だけでなく、最後に実施した時期やメンテの内容も直ぐに把握出来るので、記録は保管しておくに越したことはない。
 ちなみに、顧客管理がデジタル化され、データ管理されるようになった現代でも、アナログの紙製の記録カードによる管理も、ほとんどの会社でデジタルと併用しながら継続されている。ちょっとしたメモ書きによる記録は、やはりデジタル管理だけでは不十分だし、そのメモ書きこそが重要になるケースが実に多いのだ。

 木村は、どうやら興和楽器の顧客を個人の客として調律を行い、売上げを全て横領していたのだ。しかも、カードは「休眠」として興和楽器に返却し、発覚しないように細工していた。明らかに意図的、且つ計画的な偽装工作だろう。
 たまたま事務員のミスで、スリープに紛れ込んでしまい露呈したが、実に巧妙な手口と言えよう。

「でも……それって、一件だけとは限りませんよね?」
「なかなか鋭いな。そうなんだ、他にもアイツのカードを徹底的に洗ってるところだ。既に、怪しいのがチラホラと出てきている。それに、備品販売も会社を通さずやってたらしい。乾燥剤も、やたら売上が悪いなと思ってたんだが、個人で仕入れて売ってたらしいな。社長もカンカンで、訴訟になるかもしれんぞ」
 そう言いながらも、梶山はどこか寂しげでもあった。木村は、元は梶山の部下として働いていたのだ。十年程前から本人の希望で嘱託契約になったものの、社員に近い感覚の人物だったし、梶山も信頼していたのだろう。
「嘱託であれ、フリーの調律師にはロクなヤツがいないな。アイツらは、仕事量が安定しないから、苦しくなって悪事に手を染めるんだろうな」
 悪いことに手を出せるなら、危機感を持ってるだけまだマシでしょうね……父宗佑のことを思い浮かべ、響はそう口に出し掛けた。そう、宗佑の一番ダメなところは、危機感の欠如だろう。
 法や道徳に反する行為は推奨出来ないが、何としても仕事を取ってやるという気概や意欲は見習うべきだ。少しでも宗佑にそういう強い意志があれば、仕事が好転したかもしれないし、離婚することもなかったかもしれない。
 しかし、その感情の起伏が平坦な宗佑も、梶山がフリーの調律師を軽蔑しているのと同じように、楽器店の社員調律師を毛嫌いしていた。確かに、この職業は社員かフリーかにより、仕事量や内容、仕事への取組み方、その形態まで、何もかもが全く違うベクトルを示すのだ。大切にするものと犠牲にするものが、時として相反するのだろう。
 宗佑は、頑なに技術に拘ったが故に、仕事量や収入は犠牲にする結果になっている。反対に、興和楽器のトップとして君臨する梶山も、ひょっとしたら仕事量や収入の安定と引換えに、多くのものを犠牲にしているのかもしれない。
 では、全てを望み通りに手に出来る調律師って、果たして存在するのだろうか?
 その場合、どういった形態で存在出来るのだろうか?
 響は、多少の妥協は伴ったとしても、その姿に近いものが見出せない限り、自身の将来も見えてこないだろうと薄々気付いていた。

「さてと、木村の話は終わりだ。今日は、木村がやる予定だった体育館のグランドをお前に任せる。先ずは、一緒に職員室に挨拶に行くから、姿勢良く横に立ってろ」
「はい、よろしくお願い致します」
 梶山は、何度もこの学校に来たことがあるようで、一直線に職員室へ向かった。来校者受付で挨拶を交わすと、音楽の先生と思しき女性教諭がやって来た。響は、つい母を……同じ音楽専科の教師をしている美和のことを思い出してしまった。ほんの一瞬だけ生まれた懐かしさや温もりの後に、嫌悪と憎悪の念が巨大な波のように押し寄せてくる。
「梶山さん、お久しぶりですねぇ。今日はご苦労さまです。もう一年経つのですねぇ、早いわねぇ」
 女性教諭は、定期調律の客がよく言う定例文のようなセリフを口にした。美和も、同じことをしているのだろうか?
「音楽室のはすっごく狂ってますので、よろしくお願いしますね」
「こちらこそ、今日はよろしくお願いします。綿矢先生、今日は新人を連れて来ましたので、体育館は彼にやらせて頂きますね。松本、綿矢先生だ」
 梶山にそう促され、響はピンと背筋を伸ばし自己紹介した。
「松本と申します。本日はよろしくお願い致します」
「松本さんね、綿矢です。よろしくお願いしますね。体育館は暑いけど、昼前に窓を全開にしておきましたから、多少は風が通ると思いますわ。あと、扇風機も出しておきましたので、宜しければ使ってくださいね」
 響がお礼を言おうとすると、遮るように梶山が話し出した。
「いやぁ、先生、お手数掛けちゃって申し訳ございませんね。ほら、松本、お前の為に準備してくれたってさ」
 どうやら、響と綿矢が直接話すことを避けたいようだ。わざわざ梶山が、緩衝材のように隙間に入り込んでくる。
「ありがとうございます」
 敢えて無駄な装飾を付けず、響は簡潔にお礼を述べた。
「じゃあ、体育館に案内してやるから付いて来い。あ、先生はこちらで大丈夫ですよ。場所は把握していますので」
「あら、そう? では、ここで一旦失礼しますね。では、終わったらまた職員室に鍵を持ってきて下さいね」
「承知しました。じゃ、行こうか」
 そう言って歩き始めた梶山の後ろを、響は黙って付いて歩いた。

 体育館に着くと、梶山は手慣れた様子で鍵を開け、備え付けのスリッパに履き替えた。そして、マニュアル化されているかのような無駄のない動きで、入り口横のパネルを開き、照明を点けた。
 どこの体育館もそうだが、舞台は入り口から一番遠い対面にある。思ったより涼しい体育館を、慣れないスリッパで梶山と無言で歩いた。舞台袖には、古い大きなグランドピアノが鎮座していた。遠目に見ても外装は傷だらけで、塗料も艶消し仕様のようにくすんでいた。外見が内面を表すのなら、きっと状態は良くないのだろう。

「この学校はな、グランドが三台ある。ここと音楽室と、音楽準備室だ。入札なんで単価はしれてるが、もう十年ぐらい木村と二人で来てたんだ」
 梶山は、どうでもいい説明を始めた。いつもそうだが、この上司は時折必要のない話に逸れることがある。自己顕示欲か承認欲求が強いのだろう……と響は評価をしている。
「体育館は、ずっと木村に任せてたので、俺は状態を知らないんだ」そう言いながら、梶山は軽くピアノを試弾した。
「おっと、すごいスティックだな……松本、センターピン交換は出来るよな?」

 ピアノは、鍵盤から得たエネルギーが内部の打弦機構を通じハンマーへと伝達され、そのハンマーが弦を叩くことにより発音する楽器だ。この打弦機構(アクションと呼ぶ)は、たくさんの部品から構成される集合体となっている。この中の可動部品は全て回転運動を行い、それらが連動することによりエネルギーは伝達されていく。
 この回転運動の軸になる部品がセンターピンだが、このセンターピンを咥えている羊毛素材のブッシングクロスが膨張すると、回転運動が鈍くなり、正常に動かなくなるのだ。その場合、タッチが重く反応も鈍くなり、酷い場合は発音不良や止音不良を引き起こす。そうなった場合は、一般的にはセンターピンを交換することにより、改善をはかるのだ。
 そして、このセンターピンの交換作業は、調律師にとっては最も初歩的な修理でもあり、調律学校でも一番最初に習う修理である。しかも、響に至っては、小学生高学年の頃にはマスターしていた技術だ。もちろん、梶山には言えないが。

「はい、大丈夫です。工具もピンも持ってます……が、全部替えるのですか?」
「まさか! 全部で350本あるんだぞ。俺がやっても三時間は掛かる。それに、そんなに沢山持ち歩いてるヤツはいねぇよ。音が出ないような致命傷のヤツだけ替えればいい。ちょっとぐらいのスティックは無視だ」
「連打に支障は出ませんか?」
「出るよ、もちろん。でも、このまま使っていたんだ。それで問題になってないんだから、無理に直すこともない。今よりマシになればいいんだ。ちなみに、グランドピアノは1秒に何回連打出来るか知ってるか?」
 これは、学校の授業で、アップライトピアノとの比較数値として覚えさせられた。確か、アップライトピアノが7〜8回、グランドピアノは……
「12回でしょうか?」
「機能上の数値としては正解。じゃあ、実際に、1秒に12回の連打が出来る人ってどれぐらいいると思う? そんなのはな、一流のピアニストぐらいだぜ。ちょっと上手い人でも、せいぜい十回が限界だろうな。こんなピアノは、アップライト並で十分だ。誰も困らない。その程度動けば良しとしろ」
「分かりました」

 全く同意出来ない考えだが、ここで梶山と言い争うつもりもない。梶山は、少しでも自分を否定されると、瞬間湯沸かし器のように怒りが沸点に達する。そのことは、レッスン室の調律の際に痛いほど経験し、学習していた。
 それに、梶山によるこの指示は、予め予想していたことだ。実は、昨夜、宗佑に学校の調律をやることになった話をした。すると、「どうせ体育館のグランドだ。スティックだらけだが、直すなって言われるぞ」と父は言ったのだ。見事に予想的中だ。

「調律も、先月の教室と同じような出来で良い。ただ、掃除は念入りにやってくれ。特に、外装は見た目で分かってしまう。こんな状態でも、水拭きとワックス掛けはしっかりやるように。分かったか?」
「はい……でも、綺麗にしても、こんな所に置いてたらすぐ汚されますよね。いえ、勿論ちゃんとやりますけど、何か切ないですよね」
「まぁ、気持ちは分かる。でも、あまりデカい声で言えないことだけどな……特別に教えてやるけど、ここだけの話だぞ。学校に限らず一般家庭でも、汚いピアノを見たらチャンスだと思え。ピカピカのピアノはな、ちょっと指紋を残してしまっただけでクレームになるんだ。でも、こういうピアノはな、適当に綺麗にするだけで喜ばれるし、それだけで、調律師としての信頼にも繋がるんだ。手抜きするヤツも多いけど、俺は逆にラッキーと思ってる」
 響は、黙って頷いた。下手に口を出すと、また機嫌を損ね兼ねない。それに、腑に落ちない部分もあるとは言え、梶山の話も間違ってはいない。
 残念ながら一般のユーザーにとっては、いくら音やタッチを改善しても伝わらないこともある。それよりも、外装が綺麗になると誰でも分かる上、喜ばれる確率も高いのだ。

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