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羊の瞞し 第4章 EGOISTICな羊(1)

前話目次

(1)ベートーヴェンのシンフォニー


 入社一年目の九月——。
 響の業務は、急遽外回りの調律がメインへと変えられた。会社としても想定外の事態だが、木村との嘱託契約を解除したことにより、彼が担当していた顧客調律を誰が引き継ぐのか慎重に話し合いが行われた。社員、嘱託含めた他の調律師達で分配する案も出たが、最終的には、一人が全てを引き継ぐ方が手っ取り早いとの判断が下され、響に白羽の矢が立ったのだ。なので、当の響は、それまでの単なる店番から業務のルーティンを大幅に変える必要があった。
 一番戸惑ったことは、それまで経験のなかった「アポ取り」を行わなければいけないことだ。その月が定期調律予定の顧客カードを用意し、片っ端から電話を掛け、調律実施のお伺いを立て、予定を組むのだ。
 因みに、会社で管理しているカードは、ピアノの内部に保管しているカードとは別物だ。こちらには、メーカーや機種等のピアノ情報、メンテナンス履歴の情報だけでなく、顧客情報も記されているのだ。住所、名前、電話番号、職業といった事務的な項目だけでなく、メンテを実施した日付けや領収金額、支払い方法、設置環境、小物販売の記録、次回の予定月、除湿剤の販売、レッスンの先生、家族構成、ペット情報など、知り得た情報は出来るだけ詳細に記すように義務付けられていた。

 新人の響は、当面の間は毎月三十件を「目標数値」と設定された。まだ、完全に外回り専業ではない立場が幸いし、「ノルマ」という縛りから逃れられたことはラッキーと言えよう。しかし、この「アポ取り」という作業を行っていると、これは調律師の業務の中で、最も難しいデスクワークかもしれないと思ったものだ。
 まず、当たり前のことだが、電話は掛ければ必ず繋がるものではない。何度も掛け直したり、留守電にメッセージを残したり、時にはFAXを利用することもあった。慣れ親しんだ顧客なら、メールでも対応出来るだろうが、響にとっては全ての客が初めて伺う人だ。ピアノのコンディションや駐車場の有無など、確認すべきことは多いので、メールは不都合と言えよう。
 また、電話が繋がった所で、そう簡単に調律をやってくれる方ばかりではない。懸命に必要性を説き、時には頭を下げて頼み込むこともあれば、少しの嘘や脅しをチラつかせながら、必死に説得することも珍しくない。調律を頼むつもりがない人を翻意させるのは、至難の業である。一件の予定を組むことが、如何に難しいことなのか、痛いほど身に沁みたものだ。
 それに、響の場合は、去年まで木村が担当していた顧客がメインだ。長年に渡る木村個人との信頼関係で継続出来ていた客も多く、担当が代わるならもう調律はしない、と撥ね付けられることもあった。
 また、たまに快く依頼して貰えても、希望日時がこちらの予定と噛み合わないことも多い。遠方の同じ地域に顧客が二件あれば、同じ日に纏めて伺いたいのだが、なかなかそう上手くいくとも限らない。
 他にも、実施する意思はあっても、当分忙しいので延期したいという方もいる。ほとんど使ってないので、今年はパスしたいという方もいる……そんな中で、毎月三十件を目標に予定を組まなければいけないのだ。不慣れな響には、気の遠くなる作業だった。

 木村から引き継いだ定期カードは、学校調律の際に梶山が言っていた通り、毎月約三十件程度だった。それだけで月三十件の予定を組むことは、まず不可能だ。しかし、幸いなことにカードはそれだけでなく、「不定期カード」という数年置きにやってくださる顧客や、「繰越カード」という先月以前分の延期カードも十数枚あった。また、ほぼ見込みはないとは言え、「スリープカード」の掘り起こしも許可を得ていたので、最後は運任せになるかもしれないが、頑張り次第では何とか三十件に届きそうな感じだ。
 それに、来月になると、また教室の調律が入ってくる。また三十台全部やらせて貰えるとは限らないが、何台かは回ってくるだろう。月間の実施台数に備品調律も含まれると聞いたので、あれだけ辛かった教室の調律も、台数を稼ぐという意味では恵みの雨のように思えてくる。
 とは言え、月三十台ぐらいの実施が、今の響の限界点だろう。保有カードの数が圧倒的に違うとは言え、毎月軽く五十件以上こなしている梶山を、この時ばかりは心底尊敬したものだ。

 その頃の響は、就業後は毎晩のように榊の手伝いをしていた。自販機の入れ替えやスーパーのレジの引取り、飲食店の大型冷蔵庫の納品など、彼が請ける仕事は体力勝負の厄介なものばかりだ。
 榊は、細心の身体つきからは想像出来ないぐらい、力持ちだった。その上、長年のピアノ運送で培った経験だろうか、大きな物を運ぶ際の「コツ」を掴む能力にも長けていた。
 また、体の使い方など、基本的な技術の差だろうか、どうしても腕力と脚力だけに頼りがちな響を尻目に、榊は全身の筋肉を上手く使って運んでいるようだ。その結果、大柄で筋肉質な上、年齢差も二十歳以上離れているのに、いつも響の方が先に息が上がるのだ。

 ある日のこと、いつも通りに事務所に行くと、榊が申し訳なさそうに話し掛けてきた。
「折角来てもらったのにスマンがな、さっき準備してたらトラックがバーストしちまって、今日の仕事は知り合いに横流ししたんだ。なので、今日は休みだ。連絡も間に合わなくて、ホント、すまない。全部、俺のミスだ。申し訳ない」
 珍しく、榊が真剣な表情で謝罪するのを、響は居た堪れない面持ちで受け止めていた。
「そんな、アキさん、そんなことで謝らないでくださいよ。困ります。ドタキャンぐらい何とも思ってませんから」
 そう本音をぶつけると、榊はようやく苦い表情を緩めてくれた。
「そう言ってくれると助かるよ。ホントに申し訳ない……あ、そうだ、折角なんで晩メシでも食いに行くか? 奢ってやるよ」
「マジっすか? もちろん、ご馳走になります!」
「しかし、響は無茶苦茶食いそうだな。破産させないでくれよ!」
「大丈夫です。頑張っても、せいぜい三人分ですから!」
「はははっ、まぁ、ちょっとぐらいは遠慮せぇよ」
「はい、そこは常識の範囲内に収めます」



 榊に連れられやって来た店は、静かな鰻屋だった。個室に案内され、響は思ったより高額なメニューに驚き、注文を躊躇してしまった。実は、鰻を食べたことがなかったのだ。
「好きなもの頼んでいいんだぞ」
「はい……あのぉ、実は僕、鰻食べたことないんです。なので、お任せしてもよろしですか?」
「マジか? 今更だけど、魚は大丈夫か?」
「好き嫌いはないです。魚も好きです」
「OK、じゃあ、初めてなら、やっぱり、ひつまぶし、う巻き、肝吸いの定番にしよう」
 食べたことはないとは言え、店内に充満する匂いだけで、響は既に期待で胸がいっぱいだった。本能的に、美味しいに違いないと確信していた。
 実際に、初めて口にした鰻は、この世のものとは思えないぐらい響の口に感動を刻印した。特に、ひつまぶしの美味しさときたら……。
 それは、ショパンよりも甘く、ブラームスよりも複雑なのに、モーツァルトのような親しみがあり、シューベルトのように庶民的でもあった。それでいて、リストのように高貴でもあり、ラフマニノフのように華やかで、ラヴェルやドビュッシーのような洒落た気品にも溢れ……それら全てを網羅するベートーベンのシンフォニーそのものだった。
 何度も「美味しい」を連発する響に、榊はつい笑い出してしまった。「お前って、本当に奢り甲斐のあるヤツだな」と微笑んだ。
 榊が、これほどまでに穏やかな表情を見せるのは、この日が最後になるのかも……と思わせる程に、優しく、柔らかく微笑んだ。

(次へ)



今日から、第4章「EGOISTICな羊」です。
この章は、私の記憶ですと会話文多め、文字数少なめなので、サラッと読めるとは思いますが……相変わらず、専門用語は出てくると思います。

その一つ、前章からチラホラと出てくる「調律カード」について、少し説明させていただきます。

まず、これは大まかに2種類あります。
一つは、ピアノの中に保管されているカードで、メンテナンスの記録を残すものです。
もう一つは、会社で保管しているもので、メンテナンスの記録だけでなく、領収額、支払い方法、お客様の個人情報や会話から聞き出した話など、思い付く限りの様々な情報が記録してあります。
(私は、ペットの名前や年齢もメモっています)

どちらも「調律カード」と呼ぶことが多いのでややこしいのですが、今回は、前者の「ピアノの中に保管されている調律カード」について、少し説明させていただきます。

国産ピアノの場合、このカードは最初からメーカーが準備してありますが、販売店が独自デザインで作成したものを用意することもあります。
必ず書かれていることは、ピアノの「メーカー名」「機種名」「製造番号」「納品日」「納調実施日」です。
他に、お客様情報が書いてあることもあるし、保証書を兼ねていることも多いです。
そして、メインスペースが、メンテナンスの実施日や内容を記録する表になります。

でも、このカードによりメンテナンス履歴を残す風習は、日本だけのものです。
海外では、稀に鍵盤に記録を書き残すこともありますが、基本的にこういう「しきたり」自体がありません。

日本だけのものと言っても、カードの記入には法的な拘束力なんて全くありません。
それでも、伝統的な習慣として根付いており、調律師のマナーでもあります。
と言いますのも、カードに必ず記入することは、自分でやった仕事に責任を持つ、という意味合いもあるからです。

でも、時に、敢えて記録を残さない人もいるのです。
例えば、何らかの修理を行ったものの、出来栄えややり方に自信がなく、正しく行えている自信がない場合、名前を残したくない人もいます。
それ以外でも、例えば前章に出てきた木村のような不正を行っている人は、自分が調律を行ったという証拠を残さない為に、カードには何も記入しないことが多いです。

ということで、幾つか、実際の調律カードをお見せいたします。
全て私のお客様で、初めて担当させていただくことになった方のカードです。
ご転居やトラブル等で調律師が変更になり、初めてご依頼いただくことになった場合、私は必ず過去の実績を写真に残しておくことにしています。

このお客様は、遠方から転居されて私にご依頼くださいました。
それまで担当されていた調律師さんは、真面目な方と見受けられます。ほぼ毎年キッチリと行っておりますし、内容も細かく記録されております。


眠ってたピアノを娘さんが使うことになり、ご依頼下さりました。平成26年が最後の調律ですが、それまでも飛び飛びにしかやっていませんし、筆跡から分かると思いますが、コロコロ担当者が変わっていたようです。


毎年のように調律はされていますが、内容が何も書かれていません。また、担当者名で「〃」を使うのは悪用されることもあり、禁止している会社もあります。私は絶対に使いません。


裏面の記入欄も全部使ったら、普通は新しいカードを用意するのですけどね。
これだとちょっと見苦しいですね。
しかも、日付しか書いてないし💦


コレも日付けだけしか書いてない💦💦
名前すらない!