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心から好きだ、と思うものを愛でればいい

中学生だか高校生だかの頃、地元の美術館に有名なゴッホの絵が初来日した。花瓶か何かの絵だった気がする。その絵を見ようと、全国から人が押し寄せた。訪れたのは熱心な美術ファンか、せっかくだから記念に見ておこう、という人たちだろう。空前絶後の美術ブーム、というわけでもなかったので、後者が大半だったんじゃないかと思う。

大学生になって間もない頃、今度歌舞伎やらオペラやらクラシックのコンサートやらを見にいく、という友人が急増した。いわく、大学生になったし東京にも出てきたのだから、そうした都会の大人の嗜みを経験しておいた方がいい、というのだ。当時は、もしかしたら今もだけど、そういうことを吹聴する先輩や、その裏にそれをビジネスにしている大人たちがいたのだろう。

当時はもやもやしつつも、まあそんなものかな、と思っていた。しかし、絵画鑑賞やコンサート鑑賞が実際に趣味になった今にしてみれば、はっきりとこう思う。心から好きだと感じ、楽しむことができなければ、楽しめるかどうかの確証がなければ、別にそんなもの無理して行く必要は全くない、と。

漫画やアニメや野球やサッカーを、せっかくだから、とか、経験しておいた方がいいから、と観に行く人はあまりいない。みんなそれが好きで仕方ないから、やむに止まれず観ているわけだ。観ること自体が目的なのである。芸術鑑賞もしかり。それ自体が目的なのであって、自分を知的に装うとか教養のある人間になるとか、何か別の目的を達成するための手段ではありえない。

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外資に勤めていた約10年の間は、欧米を中心とした色々な国に出張したり、行き先がヨーロッパであればそこからさらに足を伸ばして各国を訪れる機会に恵まれた。土日を挟んだ出張も少なくなかったので、余暇ができると地元の美術館を回り、コンサートホールに足を伸ばした。しかし、そうした現地での芸術鑑賞を、ランチやディナーの話題にできる外国人の同僚はただの一人もいなかった。古典芸術の鑑賞になど、おおよそ誰も興味を持っていないのだ。

特にヨーロッパの人からすると、古典芸術は「物理的に」とても身近だ。ウィーンの街を少し散歩すれば、音楽の殿堂である学友協会があり、近代絵画の流れを変えた分離派会館があり、名建築である郵便貯金局がある。それらに日本人が感じるような「珍しさ」は皆無だろう。それゆえに古典芸術の鑑賞は、それほどお金がかかるものでもなく、ビジネスにもファッションにもなりにくい。

そうした要素を取り除いて、純粋に楽しめるかどうかという問題に収斂させると、何百年も前につくられた古典芸術を楽しめる人がそう多いはずはない。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される」と漱石の「草枕」の一節を聞かされて、「超わかるー!」となる高校生は少ないだろう。逆に、全てを捧げていた推しが芸能活動を退く「推し燃ゆ」の悲壮を、漱石の高等師範学校の生徒たちが理解できるかというとそれも難しい。

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古典芸術を楽しむには、その背景にある作者の人生や作者が生きた時代、そして西洋芸術の場合は往々にしてその根幹となっているキリスト教文化を理解している必要がある。例えば、有名なベートーベンの第九の「合唱」パートに、以下のような一節がある。

Deine Zauber binden wieder was die Mode streng geteilt

あたなの聖なる力は、時が強く引き離したものを再び結びつける

ベートーベンは天涯孤独の人だった。若くして最愛の母と死別し、身分の問題で「不滅の恋人」との仲を引き裂かれ、晩年には溺愛していた唯一の肉親である甥のカールが破滅してしまう。そうした愛する人たちと、死後の世界では再び出会えるに違いない、という「歓喜(freude)」を歌ったのがこの「喜びの歌(An die Freude)」だ。

この歌はEUのアンセム(国歌)にもなっているのだけど、本来このシラーの詩は、分断されたヨーロッパ諸国の統合を願ったものだった。上の一節の中のstreng(強く)という歌詞は、シラーのオリジナルではSchwert(ソード=刀)になっている。「時代の刀が切り裂いたものを」、つまり戦争によって引き裂かれたヨーロッパの国々を、再び結びつける、という意味だったのだ。

この詩を、愛する人たちとの再会に読み替え、孤独で悲惨な生涯の最後に書いた交響曲で、「喜びの歌」を歌ったベートーベンの心持ちよ。それを想像するからこそ、僕はこの曲を涙なしには聞けない。シンプルに心を揺さぶられ、感動するのだ。だから、いくつもの演奏を聴き、コンサートにも足を運ぶ。大人の嗜みとか教養とか、そんなものはどうだっていい。

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そうして作品の背景を深掘りし、ベートーベンのお墓を訪れたり、晩年の散歩道を歩いてみたりすることは、僕にはこの上ない楽しみだ。でも、それが高尚だったり特別なことだとは毛ほども思わない。ただ単に好きなだけだ。要は僕はベートーベン推しなのであり、推しに貴卑はない。

何かに深く入り込み、その対象をもっと理解しようとすること。それが芸術鑑賞の尊さだと僕は思う。その人や団体を何かの手段ではなく、目的とすること。それができるのは数ある動物の中で人間だけで、ゆえにそれは極めて人間的な行為だと言えるのだ。

だから、みんな自分の推しを推せばいい。対象が何であれ、それは芸術鑑賞だ。興味もない花瓶の絵を見に行ったり、意味も解らないオペラを聞きに行く時間とお金があったら、それを心から好きだと思えるものに使った方がいい。それがまだないなら、出てくるまでセーブしておけばいい。理解できないものを理解する義務も義理もない。楽しめないなら、芸術鑑賞に意味なんてない。

おわり

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ソフトバンク株式会社のメディア統括部長。←ヤフー←アウディ←ユニリーバ←ニュージーランド航空。著書に「デジタルマーケティングの実務ガイド」「たとえる力で人生は変わる」など。NewsPicksアカデミアプロフェッサー。新刊「マーケターのように生きろ」が全国書店とネットで好評発売中。