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『ビューティフルからビューティフルへ』と村上龍と濁流のような文章

『ビューティフルからビューティフルへ』(日比野コレコさん著)がすごい。
いや、文芸誌に掲載されて賞を取るような作品の一言目の感想が「すごい」ってなんだよ、そういうことが嫌だと感じる人が読むもんじゃないのか、純文学は、と思う。思うが、すごいという感想しか出てこない。

僕は中学1年くらいから、読書を続けている。
褒められたことではないが、多少ひねくれているので、いわゆる純文学とか、文学と呼ばれるものを好んで読む。大衆小説も読むことは読むが、直木賞作品は数えるほどしか読んでいない。他意はないが、東野圭吾や宮部みゆきなどの推理モノや、ミステリーもほとんど読んだことがない。一言でいうなら、クールぶっているカッコつけなのだ。
クラスで一人はいただろう。いつも一人で行動して、「趣味は人間観察だよ」とか言っちゃう痛いヤツ。それが僕だ。口を開けば「ライトノベルなんかしょうもないもの読まないよ」とか言っちゃうヤツ。そんな僕もちゃっかり、『涼宮ハルヒシリーズ』と『とある魔術シリーズ』は家でこっそり読んでいた。みんなにミーハーだなんて思われたくなくて、知的な人だと思われたくて、かっこつけてドストエフスキーとか太宰とか読んで「うーん、人間の感情というのは、実に深くてどす黒い。でも、その美学が良い」とか言ってたな。実は読んでも良さが分からなかったり、意味が分からなかったりしたんだけど、分かった風を演出してた。

そんな僕が純粋に衝撃を受けた作品があった。
村上龍の『歌うクジラ』だ。

文体の勢いがとてつもない。鋭利な石と、重くて硬いレンガが混ざった濁流が押し寄せてくるような文章。ストーリーも暗く、救いのないような話だ。正直、読んでいて楽しくなるような話ではない。気持ちとしては、『1984年』や『時計仕掛けのオレンジ』とどっこいどっこいだ。
少しネタバレをすると、訳があって、登場人物の話し言葉が変なのだ。「てにをは」が無茶苦茶に書かれている。これは重要な設定の一つなので、仕方ないのだが、もう読みにくくてしょうがない。

僕がとっては、これを地獄のように読みにくかった。「てにをは」に違っていても、単語に同じなのだから読めるだろうと思っていた。
(僕にとっては、これが地獄のように読みにくかった。「てにをは」が違っていても、単語が同じなのだから読めるだろうと思っていた。)

こういう文章が続くのである。もう無茶苦茶である。意味も変わってくる。
①「僕は好きだ」
②「僕が好きだ」
③「僕を好きだ」

①は、私は(それが)好きだという意味になるが、②は「僕」がそれを好きな場合と、「それ」が僕のことを好きな場合の2種類考えられる。
③は「それ」が僕のことを好いているんだろうと考えられる。
助詞が違うだけのなのに、意味が全く変わってくる。一文字しか違わないのに、意味が変わってくる言語なのだ、日本語は。

『歌うクジラ』は設定が凄まじくカオスだ。
それに併せて、著者は村上龍。文体の勢いがとてつもない。

話は逸れたが、『ビューティフルからビューティフルへ』は、村上龍作品とは違うものの、文体に勢いがある。かなり鋭利な、突き刺さるような文字だ。これはすごい作家が出てきたぞ・・・と思う。怖くもある。

何が怖いかって、この記事を書いている時点で、まだ初めの15ページほどしか読んでいないことだ。読んでないのに、書評チックなことを書いてしまっている。なんじゃこれ。皆さんはこんな適当な人間にならないように。


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