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【試し読み】和菓子屋姉妹の感動物語!近藤史恵『おはようおかえり』

ドラマ『シェフは名探偵』の原作である「ビストロ・パ・マル」シリーズの著者・近藤史恵が贈る、少し不思議でほろ苦い、大阪に住むある姉妹の感動小説。こちらのページでは、第1章の試し読みを公開します。

おはようおかえり帯あり書影
『おはようおかえり』書影

あらすじ

北大阪で70年続く和菓子屋「凍滝」の二人姉妹、小梅とつぐみ。姉の小梅は家業を継ぐために進学せず、毎日、店に出て和菓子づくりに励む働き者。 妹のつぐみは自由奔放。和菓子屋を「古臭い」と嫌い、大学で演劇にのめり込みながら、中東の国に留学したいと言って、母とよく喧嘩をしている。
そんなある日、43年前に亡くなった曾祖母の魂が、なぜかつぐみの身体に乗り移ってしまう。「凍滝」の創業者だった曾祖母は、戸惑う小梅に 「ある手紙をお父ちゃん(曾祖父)の浮気相手から取り戻してほしい」と頼んできた。
手紙の行方をたどるなかで、少しずつ明らかになる曾祖母の謎や、「凍滝」創業時の想い。姉妹は出会った人びとに影響されながら、自分の将来や、家族と向き合っていく。


【第1章】

女が強い家系だと、よく言われた。

思い当たることばかりある。祖父は若くして死んだ。伯母たちはみんな強烈な性格をしているし、その配偶者はどちらかというと、大人しい男性ばかりだ。祖母の話によると、祖母のきょうだいも似たようなものだったらしい。
祖母は五人きょうだいで、男はひとり。兄は大人しい人だったが戦争中に身体を壊し、戦後まもなく命を落としたという。残りの女たちは、働いて結婚しても、定年まで仕事を続けていた。一番若くで亡くなった人も、八十五歳まで生きたし、まだ元気な人もいる。

祖母も、ほんの三年前まで、「凍滝(いてたき)」の店主だった。
八十になるまで働いて、突然、「もう嫌になった」と言って、家を出て、今は大阪市内のマンションで、悠々とひとり暮らしをしている。

今は、母が「凍滝」の店主をやっている。
父は、製薬会社の営業として働いていて、今は東京に単身赴任している。
七十年前から営業を続けているといっても、和菓子屋としては特に老舗ではなく、有名店でもない。要するによくある田舎の和菓子屋だ。
この不景気で、いつまで店を続けていけるかどうかはわからない。祖母も母もそう言って、父が一緒に凍滝で働くことは望まなかった。

それでも。
わたしか妹のつぐみのどちらかは、凍滝を継ぐことになるのではないかとずっと思っていた。

最初は、姉だからわたしが継がなければならないのではないかと思っていた。つぐみは、中学生の頃から演劇部に入って「舞台俳優になる」なんて言っていたし、わたしは特にやりたいこともなかった。
つぐみには、その名の通り、つばさが生えているようだった。
興味の対象はころころ変わるし、やりたいこともどんどんあふれてくる。いくらでも夢が思い描ける。
大学もアラビア語学科に進み、エジプトに留学したいだの言って、母とよく喧嘩をしている。

わたしには、特になにもない。
大学も結局、行くのをやめた。つぐみほど成績もよくなかったし、凍滝を継ぐのなら、大卒の経歴などもいらないだろう。母も無理に進学しろとは言わなかった。
ちょうどその頃、ベテランの従業員がひとりやめて、人手が足りなくなったこともあり、わたしは高校を卒業後、凍滝で働きはじめた。
つぐみの軽やかさや、前向きなところがうらやましいと思わないわけではない。

だが、仕方がない。わたしにはつばさがないだけのことだ。
小梅という自分の名前は、嫌いではない。けれど、梅の実はぽとんとその場に落ちて、そこから芽を出すしかないのだ。

兆候のようなものは、その少し前からあったのかもしれない。
つぐみは、毎日大学に行き、アルバイトをして、趣味の演劇をやって、毎晩遅くに帰ってくる。
わたしは、朝から開店準備をしなければならないから、夜は早く寝る。三日くらい顔を合わさないことなんてしょっちゅうだ。

祖母が一緒に暮らしていたときは、同じ部屋で、布団を並べて寝ていた。たった三年前のことだ。
祖母が引っ越して、つぐみが祖母の部屋に移った。同時につぐみは受験勉強のため、塾に通い始めて、その頃から一気に距離ができた。

仲は悪くなかったと思う。二歳違いで、しょっちゅう喧嘩もしたけど、常に一緒だった。
なのに、あまり顔を合わさなくなったことも、距離ができたことも、さほど寂しいとは思わなかった。
つぐみは、わたしより数倍しっかりしているし、心配するようなこともない。事実、国立の難関大学にもストレートで合格した。

わたしはわたしで、母や職人さんから、仕事を教わるので必死だったし、高校生だったときと生活も変わってくたくただった。妹のことになんか、かまう余裕などなかった。

わたしがつぐみの変化に気づいたのは、五月のゴールデンウィークが終わった頃だった。
火曜日は凍滝の定休日で、わたしは午後から、映画に行こうと身支度をした。洗面所で日焼け止めクリームと口紅だけ塗り、帽子をかぶったときだった。
二階から、つぐみが降りてきた。どこか、うつろな顔をしているな、とは思った。
連休期間はつぐみの顔を見ることも普段よりは多かった。
つぐみがちらっとこちらを見た。

「どこ行くの?」
「うん、ちょっと」

隠すつもりがあったわけではない。ただ、映画を観に行くと言って、「なんの映画?」と聞かれるのも面倒くさい気がした。
そろそろ出発しないと、バスがきてしまう。

「ふうん……」

つぐみはなぜか、わたしの全身を上から下まで眺めた。

玄関でサンダルを履き、わたしはいつもの習慣で誰にともなく言った。

「いってきまーす」
「おはようおかえり」

つぐみがそう言った。

「え?」

聞き直したが、彼女は居間の畳の上に座り込んで、新聞を広げた。
変なことを言うな、とは思ったが、きっとどこかで流行っている言い回しなのだろう。引き戸を開けて、外に出ると、焦げそうな日差しが襲いかかってきて、わたしはすぐにつぐみのことばを忘れてしまった。

わたしとつぐみはよく似ているらしい。
親戚には子供の頃からよく間違われた。中学生の頃、身長が同じくらいになって、親にまで間違われるようになった。さすがに問題があると思って、わたしは髪を短く切ることにした。

「わたし、髪、切るから」

そう言うと、寝転んでマンガ雑誌を読んでいたつぐみがこちらをちらりと見たのを覚えている。

「ええんちゃう?」

本当は髪など切りたくなかった。ポニーテールは楽だし、自分に似合っていると思っていた。
そう思う気持ちは、喉元まで出かかったけれど、結局は呑み込んだ。
つぐみはたぶん、髪を切らないだろう。休みの日は、器用にいろんなヘアアレンジを楽しんでいる。
だから、間違えられたくないのなら、わたしが髪を切るしかないのだ。

わたしたちは、よく似た姉妹だ。帽子をかぶっていたりすると、今でも間違えられることもある。
それでもなにかが根本的に違う。親戚のおじさんが、容姿を褒めるのはいつも、つぐみだけで、彼氏がいるのもつぐみだけだった。

自分でもわかる。似てはいるけれど、鏡で見る自分の顔よりも、つぐみは可愛い。
パーツは似ていても、配置が違うと美のバランスは崩れるものだし、なによりつぐみは、よく笑って、人懐っこい。

わたしも、まったく他人とうまくやれないわけではないのだが、いつも心を開くタイミングがよくわからない。
会話のボールは、いつも目の前をころころと通り過ぎていく。追い掛けてつかまえても、すでにそのときには、空気の流れは変わってしまっている。

長男、長女は、試作品だ。誰かがそんなふうに言っていて、少しだけ納得した。
それでも試作品であろうと、ポンコツであろうと、与えられたものでやっていくしかないのだ。

夕方、客足も落ち着いて、ガラスケースに並ぶ商品も残り少なくなってきた。
まだレジを締めるのには早い。一日で、いちばん手の空く時間だ。
母の小枝が二階から降りてきた。従業員の真柴さんに言う。

「真柴さん、代わるからちょっと休憩したら?」
「え? でも、あと一時間で閉店ですし……」
「でも、お昼、忙しかったから、少し早めに出てもらったでしょう。その分」
「そうですか。じゃあ」

真柴さんは、いそいそと店の裏にある休憩室へと向かった。小さな店だが、三階建ての鉄筋建築で、一階が店、二階と三階が菓子工房と倉庫になっている。
建てられたのは四十年以上前で、かなり古びてはいるが、阪神大震災も乗り越えた。

「あんたも座ったら?」

そう言われて、わたしはのれんひとつ挟んだ商品置き場に行き、椅子に座る。魔法瓶に入れてあるお茶を紙コップに注ぎ、昨日の売れ残りの六方焼きをぱくりと口に入れる。

もう売り物にはならないものだが、充分美味しい。
店から、母の声が聞こえた。

「ねえ、最近、つぐみが変やと思わへん?」
「変?」

わたしは首を傾げる。去年はいきなり髪を真っ赤に染めたり、ピアスの穴を三つも開けたりしていたけれど、最近、なにか変なことはあっただろうか。

「変ってたとえば?」
「しゃべり方とか。なんかお年寄りみたいなしゃべり方をする」
「舞台で今度は老け役でもやるんじゃないの……あ!」

頭に浮かんだのは、数日前のことだった。

「そういえば、この前、出かけるとき、変なこと言われたんだった」

母がのれんを上げて、こちらを見た。

「なんて?」
「えーと、たしか、『おかえり』って。出かけるときだったのに変だよね。その前にもなんか言ってた。それまでも話してたのに、いきなり『おはよう』って言ったり」

母はなぜか、妙な顔をした。

「それ、もしかして、『おはようおかえり』って言ったんじゃないの」
「え、なにそれ?」

はじめて聞くことばだった。

「『いってらっしゃい』ってことよ。おばあちゃんがときどき言ってたなあ」
「なんで、おはようとおかえりが、『いってらっしゃい』なの?」
「『おはようおかえり』。つまり、早く帰ってらっしゃいってこと」
「えー……なんかやだなあ。早く帰ってこいなんて」

自分の行動に干渉されたような気がしてしまう。

「それに、お祖母ちゃん、そんなこと言ってなかったと思うけど」

わたしはお茶を飲み終えると、紙コップを捨てて、店に戻った。

「あんたのお祖母ちゃんやないわよ。わたしのお祖母ちゃん。つまり、あんたにとってはひいお祖母ちゃん」

話には聞いたことがある。明治生まれで、戦後、夫と一緒に凍滝をはじめた。創業者というほど大げさな店ではないけれど、居間には曾祖父母の写真が飾られている。

写真で見る曾祖母は、祖母よりも母に似ていた。五十代くらいの写真だからかもしれない。

「そうやねえ……」

母は少し考え込んだ。

「たぶん、昔は遅く帰ってくることに、いい理由なんてほとんどなかったんやないかなあ」

はっとした。

「今やったら、出かけたついでに映画観て、買い物して、ついでに友達に会っておしゃべりして、楽しすぎて遅くなってもうたってことはいくらでもあるけど、昔は、予想外の出来事があって、遅く帰るのは、たいてい、悪い理由やったんやろうね」

怪我をしたとか、途中で具合が悪くなったとか、事故に遭ったとか。
夜だって今よりも暗かっただろうし、交通の便だって、今より便利だったはずはない。

だから言ったのかもしれない。おはようおかえり、と。
でも、なぜ、つぐみがそんな古いことばを使うのだろうか。今の流行なのだろうか。

「わたしはお芝居の役やと思うわ」

わたしは姿勢を正して正面を向きながらそう言う。

「小梅、つぐみが今度、お芝居でどんな役をするか知ってる?」
「知らないけど……」

そういえば、最近本当に話をしていない。彼女は彼女で外の世界があって、そこで楽しく生きているのだとばかり思っていた。

「今度、ちょっと話してみるわ。お芝居の役作りだと思うけど」

そう言うと、母は少しほっとしたように笑った。

「頼むわ」

その日の夜、お風呂から出てくると、つぐみが居間のちゃぶ台で晩ご飯を食べていた。もうすぐ十一時で、眠くて仕方がなかったけれど、少し話してみることにする。
ちゃぶ台の上に並んでいるのは、三時間ほど前、わたしと母が一緒に食べたのと同じ料理だ。
鯖のパン粉焼き、ピーマンの塩昆布あえ、茄子の味噌汁。つぐみは毎日忙しいから一緒に食べない。食べるかどうかの連絡もしてこない。

母とわたしは、いつも三人分の夕食を作る。つぐみは食べたいときに、それを電子レンジであたためて食べる。夕食か、それとも翌日の朝か。少なくとも、翌日の夜にはいつも料理はなくなっている。食器も自分で洗っていく。
世話がかからないといえば、まあそうだ。

いつもはその横を通り過ぎて自分の部屋に行くのだが、わたしはあえて、つぐみの前に座った。
彼女は少し顔を上げた。目が驚いている。

「なに?」
「いや、遅いんやなと思って……」
「まあね、稽古が長引いてしまって……」

彼女はそう言いながら、鯖のパン粉焼きを頰張った。ふりかけをかけたごはんもぱくぱくと食べる。

「こんな時間に食べて、胃もたれしない?」

「小梅みたいに、早くは寝ないから」
「何時まで起きてるの?」
「二時か、三時くらいかな」

そういえば、一緒の部屋で寝ていたときも、つぐみは遅くまでネットサーフィンをしたり、タブレット端末で映画を観たりしていた。

「今度のお芝居、なにやるの?」

そう言うと、つぐみは箸を止めた。

「観に来てくれるの? チケット買ってくれる?」
「行ける日程だったらね」

土日は店が忙しいから、昼間は出かけられない。高校の文化祭などでは観たことがあるが、大学に入ってから、つぐみのお芝居を観ていない。

「今回はねえ、忍者」
「忍者?」

忍者だったら、古いしゃべり方になっても不思議はないかもしれない。
ふいに、つぐみが箸を置いた。わたしの手首をつかむ。

「なに?」
「手相。見せて」

つぐみは、ときどきわたしの手相を見たがる。そんなに多くはない。半年、もしくは一年に一度くらい。
手相なんか見てなんになるのだろう、と、いつも思う。

「小梅、運命線濃いよね。掌を縦断している」

そう言って、彼女はわたしの掌を撫でた。少しくすぐったい。
これもいつも言われることばだ。普段はそれほど占いに興味があるわけではないようなのに、いつもわたしの運命線のことだけ気にする。

「わたしなんか、運命線が存在しないのに……」

彼女は手を広げて、わたしの方に向けた。
たしかに彼女の掌の線はひどく薄い。2Hのえんぴつで描いた線みたいだ。わたしの掌には2Bのえんぴつで描かれたような太い線がある。

(これが生命線、頭脳線で、感情線、そしてこれが運命線)
そう教えてくれたのは、中学生の頃のつぐみだった。
なんとなく、話題を変えたくて言った。

「そういえば、中学生のとき、2Hのシャープペンシルの芯が流行らなかった?」
「そうやったっけ?」

つぐみはさらりと受け流した。二年違うと流行も違うのか、それともつぐみはそんなことを気にしなかっただけなのか。

あの頃、わたしと友達は、競って、薄く細い文字を書いた。太くて濃い文字を書くなんて、とてもみっともなく、恥ずかしいことのように思えた。
その熱狂のような流行は、三ヶ月ほどで終わりを告げた。薄くて細い文字を読むことに音を上げた教師たちにより、「シャープペンシルの芯はHBかBを使うこと」と決められたのだ。

小さな自己表現すら、わたしたちには許されないのか。そう腹を立てたけれど、今になって思えば、なぜ、細くて薄い文字を書きたかったのか、少し不思議に思えてくる。

「お母さんの手相もこんなだよね」

つぐみはそう言いながら、自分の掌を撫でる。

「海外旅行にも行かず、母親から受け継いだ店を守って、サラリーマンと結婚して」

母が聞いていないか、少し不安になりながら、声をひそめる。

「でも、大きな病気もせずに、元気だし、お父さんは優しい方だと思うし……」

たぶん、一緒に暮らしていたときは、もう少しシニカルに父のことを見ていた。今は離れて住んでいるから、父のいいところが前よりもわかる。

「まあ、優しくないとは言わないけどさ……」

不満げに言うつぐみに、胸がきゅっと痛くなる。
つぐみは母のように生きたくないと思っている。たぶん、わたしは母と同じように生きるのだと思っている。

「ひいお祖母ちゃんの運命線は濃かったって」

つぐみは自分の掌を見ながら、そう言った。

「誰が言ったの?」
「お祖母ちゃん」

なにかをはじめるのにはエネルギーがいるのだと思うけれど、それでも和菓子屋として働いているという点で、曾祖母の人生と母の人生に大きな違いがあるとは思えない。
そう言うと、つぐみは目を細めた。これは、「わかってないなあ」の顔だ。

「自分でやりたい仕事をはじめるのと、親から受け継いだ仕事をするのと、全然違うやん」

ちくりちくりと小さな針がわたしの心を刺す。
つぐみがなにを言おうと、わたしには関係ないと思えたらいいのに。
わたしは話を変えた。

「お母さん、まだ許してくれないの? 留学のこと」

父はわたしたちのすることに反対するような人ではないから、問題は母だ。
つぐみはまた箸を持って、食事をはじめた。

「そう。やになっちゃうよね。イスラム圏は怖いから駄目だってさ。偏見まみれ」

大学のアラビア語科に行くときも、一悶着あったような気がする。英語科や中国語科にも行けたのに、つぐみはアラビア語を選んだ。
正直、わたしもつぐみがそんな遠い国の文化に興味を持っていなければ、ペルシャとアラブの違いすらわからずに生きてきたように思う。

今は少しだけ違いがわかる。あくまでも少しだけ。

「でも、行く。わたしは絶対に行く」

わたしはちゃぶ台に肘をついて、つぐみを見た。

「応援するよ」

つぐみは、はにかんだように笑った。
凍滝は小さな店だから、それほどたくさんの商品を作るわけではない。
ショーケースに並ぶのは、せいぜい六種類から八種類。
大福、六方焼き、きんつばは定番商品で、季節によって、桜餅や柏餅、栗饅頭などがお目見えする。月替わりの美しいねりきりは二種類。これは、予約や特別注文があったときには、種類が増えることもある。

お菓子を作るのは、ベテラン職人の尾形さんと母だ。三年前までは、祖母が中心になって、作っていた。母も二十年以上続けてはいるが、いまだに祖母のようにはできないと言っている。
わたしも尾形さんからいろいろ教わってはいる。

餅米を蒸したり、あんこを煮たりするのには慣れて、最近、ようやく六方焼きを焼けるようになった。
とはいえ、見た目も美しいねりきりを作るのはなかなか難しい。店に並ぶのは、五十年、職人として働いている尾形さんが作ったものだけだ。

難しいといえば、きんつばもそうだ。寒天で固めた粒あんに、薄い衣をつけて焼く。わたしが焼くと、いつも衣が分厚くなってしまう。
尾形さんと母は、薄い衣をまとったきんつばを作ることができる。
六方焼きは衣が分厚くても美味しいし、むしろあまり薄いとバランスが悪い。

だが、きんつばは粒あんが透けるほど薄くなければならない。わたしにはまだ作れない。
わたしはむしろ、早くねりきりが作りたい。
夏はあじさいや水に透ける金魚、冬は梅や南天、春は桃や桜。季節感のあふれる美しいねりきりや、きんとんをデザインして、作ってみたい。

母は、美しい和菓子を作ることにはまったく興味がないらしく、「小梅に任せた」などとよく言っている。
尾形さんも七十になる男性だから、いつまで働けるかわからない。わたしも尾形さんと同じようにねりきりを丸めたり、花の形を作ってみたりはしているが、店に出せるようなものを作るのは簡単ではない。

ときどき、スケッチブックに、作りたいねりきりの絵を描いてみる。
色鉛筆で色を塗り、味をイメージしてみる。これを自分の手で作れるようになるのは、どれほど先のことだろうか。

ちょうど起きようとしたときだった。

ドン、と下から突き上げるような揺れがあった。地震だ、と思った。
布団の中で息をひそめていると、とたんに激しく揺さぶられた。
わあっと声が出た。布団から飛び起き、階段を一階まで駆け下りる。
母もパジャマのまま、居間で棒立ちになっていた。
とりあえず、揺れは収まっているようだった。

「びっくりした……阪神大震災を思い出した……」

母が胸をなで下ろす。
居間に置いてあるコートハンガーが倒れていて、簞笥の上に飾ってあったぬいぐるみが落ちている。
わたしは阪神大震災のときには、まだ生まれていない。思い出すのは東日本大震災だ。大阪の揺れはそれほど大きくはなかったのに。

母がテレビをつけて、前に座った。地震のニュースがはじまっていた。
震源地は、北大阪。うちの近所だ。
わたしは、おそるおそる台所に向かった。幸い、調味料の瓶が倒れているくらいで、食器棚は無事だった。
なにかが割れたりしたような様子もない。

母の声がした。

「ねえ、ちょっと。つぐみはどうしてる?」

まだ朝の六時。普通なら寝ているはずだが、さすがにあんな揺れで起きてこないのはおかしい。

「ちょっと見てくるわ」

わたしはつぐみがいるはずの、奥の襖を開けた。
目に入ったのは、敷きっぱなしの布団だった。タオルケットがぐしゃぐしゃになっているから、寝た気配はある。

「もう出かけたみたい」
「え。もう?」

大学はバスで二十分くらいだから、それほど早起きする必要はない。演劇の方で、朝の稽古でもするのだろうか。
揺れは大きかったが、ニュースを聞く限り、被害はさほど大きいわけではなさそうだ。

「外にいるなら大丈夫やろうね……」

母は自分に言い聞かせるようにつぶやいた。わたしは部屋に携帯電話を取りに行き、つぐみの携帯にかけてみた。同時に、つぐみの部屋からバイブ音が聞こえてくる。どうやら、携帯電話を忘れて出かけたらしい。こんなときにタイミングが悪い。
母の携帯にも電話がかかってきた。

「あ、お父さん。うん、わたしと小梅は大丈夫。つぐみはもう出かけたらしいんやけど、たぶん大丈夫やと思うわ……」

母の声を聞きながら、窓を開ける。隣の家の瓦が崩れていた。
電話を切ると、母が立ち上がった。

「店に行くわ」
「わたしも行く」

店は鉄筋だから、木造の自宅よりは強いと思うが、それでも築四十年以上だからなにがあるかわからない。
バスも電車も止まっているが、店は自宅から歩いて五分くらいのところにある。急いで着替えて、化粧もしないまま、店に向かった。この様子では今日は、店を開けられないかもしれない。

店に向かう途中も、塀が倒れた家や、瓦がずれた家を見かけた。我が家の被害が軽く済んだのは、単に運が良かっただけのようだ。
店の建物も、大きく崩れたり、ヒビが入ったりしている様子はない。とはいえ、配水管などのことも心配だ。
通用口の鍵穴に鍵を差した母が妙な顔をした。

「開いてる……」
「ええっ?」

昨夜は間違いなく、鍵をかけて帰ったはずだ。

「もしかして、尾形さんが来てるとか……?」

尾形さんも店の近くに住んでいるが、うちよりは遠いはずだ。
警備会社と契約しているからピッキングなどがあったら、すぐに警備会社が駆けつけるはずだ。
わたしたちは、ドアを開けて、中をうかがった。二階に灯りがついているのが見えた。

「やっぱり尾形さんじゃない?」

泥棒なら、レジなどがある一階を狙うだろう。とはいえ、店を閉めた後、売り上げは銀行の夜間金庫に納めるから、店にはあまり現金を置いていない。
二階に向かう階段を上がる。エレベーターもあるのだが、まだ余震が続いているから、あまり使いたくはない。
二階をのぞいて驚いた。そこにいるのはつぐみだった。

自宅には予備の鍵を置いてあるから、それで勝手に入ったのだろうか。
彼女はきんつばを焼く鉄板の前に立っていた。その横には、昨日仕込んだきんつばのあんがバットの上に並べられている。

「つぐみ?」

声をかけたが、彼女は返事をしない。掌で、鉄板の温度を確かめる。
四角くカットされたあんの一面に衣を付けて、鉄板の上に並べていく。七個並べ終わると最初の一個の別の面に衣を付けて、また並べていく。

わたしは息を呑んだ。
あきらかに、作り慣れているとしか思えない手際のよさだった。七個のきんつばのすべての面に衣を焼き付けると、次の七個を同じように鉄板に並べていく。場所を少しずつずらしていくのは、鉄板の温度が変わるからだ。一度焼いた場所は温度が下がる。だから焼いていない場所にのせていく。

尾形さんと同じくらい手際がいい。だが、尾形さんの焼き方とは少し違う。尾形さんはいつも十個ずつ焼いていた。
わたしの後ろで、母がかすれた声で言った。

「おばあ……ちゃん……?」

それと同時に、わたしは気づいた。つぐみの掌には、太く濃い運命線が走っていた。


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