真っ暗な社会を笑わせたかった人
2.
愛情の欠如から生まれた無意識の渇望。
コメディアン(そう呼ばれることを肯定はしていない。)である彼が、立ち向かったのは何か。ジムキャリーとアンディが。
ストラクチャー、構造、といった枠組を嫌い何にもはめ込まれずただ漂う。確かに我々はこの地に生きている以上、国籍や性別、信仰といったステータスを組み込まれどこの枠組みに属していて。
人は故に、その人が”誰”なのかを教えてくれる。いや知ることができる。それは逆説的にどこかも属さないと保てない不安感を抱いているということ。無意識的に。
一番最初に書いたことがここでも反響してくる。つまり彼がどこに立っていたのか。人びとがあえて引いているような線を、枠組みをあえて越えるという試みの背景にある自動化からの脱却と本気の感情の彷彿。狭間を渡る感覚の先に彼が見ている、いや体現していたのがリアリティーとフェイクの最前線であったとすればただ単に笑いという身体反応を起こさせるためではなかっただと僕は考える。
キーは何か。
それは笑うことを忘れてしまった社会に対して、という視点だけではなく自分が何者であるかを探し続けたという姿勢の方。もっというと生きた残像といったほうがしっくりくる。ジムキャリーが映画の撮影を始めた時から”ジム”という存在から離れでていたと。アンディは一つのサンプル。あくまで自分という魂のいく先。
誰かに定義されることを拒み、漂うことを選んだ。自分は何者でもないという実感は自分以外の何かに枠組みをはめ込まれずに生きるという選択だ。
キャラクターを着ることで、彼らが切っていたのが生きることへの思い出し笑いだとすると彼らにとっての笑いは需要供給の問題ではなくて、自分という存在を確かめる唯一の手段だったのかもしれない。
というわけで、マンオブザムーンを観ることにする。