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人見知りでプライドの塊だった僕がカメラを通して”人とのつながり”に気づいた話

このnoteについて

このnoteでは、僕がカメラを通して見ている世界、カメラのある自由なライフスタイルを楽しんでいる様子をお届けしています。「へ~、こんな生き方もあるんだ。なんか楽しそう」。読んでくれた方にそう思っていただければ、とても嬉しく思います。

プロフィール名の「”きぬきぬ”たまに”佐藤孝太郎”」は、30年近くプライベートで使っているニックネーム”きぬきぬ”と、ビジネスネームの”佐藤孝太郎”を合わせたものです。

僕は理系の国立大学を卒業後、大手カメラメーカーにエンジニアとして採用され、カメラ開発の仕事を12年続けました。在職中に副業で写真教材のDVD通販事業を立ち上げ、独立したいまは会員数5000人のオンライン写真教室を経営しています。パートナーであるプロの写真家さんが講師として生徒さんを指導してくださるので、僕は代表として企画や運営を担当しています。

これまで、最先端のカメラを開発する「モノづくり」と、誰でも写真を学べる「仕組みづくり」に20年ほど取り組んできました。その中で行きついたのは、プロの写真家じゃない一般の人にとって「写真とは人生を豊かにするツールの一つでしかない」という答えです。

写真コンテストで入賞するとか、SNSでたくさんいいねを集めるとか、写真を仕事にするとか。写真が上手くなって周りから「すごいね!」って評価されると、自分が”何者か”になれたように感じます。

でもそれって写真の楽しさの”ほんの一部”でしかありません。

写真の楽しさってもっとバラエティに富んでいます。例えば、みんなが通り過ぎる道端で夕日に照らされたススキを見つけて嬉しくなったり、気のおけない仲間と一緒に撮影旅行に出かけて夜はカメラの話題で盛り上がったり。久しぶりに実家に帰って、親が元気だった頃の写真を眺めて、切ないけどあったかい気持ちを感じたり。

カメラを持つことで、いままで見過ごしていた世界の美しさに気づけること。写真を通して人と人のつながりを強く実感できること。それがプロの写真家でない僕たちが求める「写真の楽しさ」じゃないかと思います。

だから、「いい写真」とは単に構図がキレイとか色づかいが美しいとか、高度な技術で撮られたものだけを指すのではない。それよりも、その人が大切にしている「価値観」や「世界の見方」が写しこまれたものこそ「いい写真」と言えるのではないかと僕は思います。もちろん答えは1つじゃないし、みんなが「いい写真とは?」に対する答えをそれぞれ持ってほしいと思います。

よって、このnoteではよくある「写真を上手に撮るテクニック」のようなものは扱いません。プロの写真家ではないうえに人見知りな僕が、カメラと出会ってどう人生が変わったか?僕の「カメラを通した世界の見方」や「カメラを使った日々の彩り方」についてご紹介していきます。

このnoteを読んだ方が「自分にとって、いい写真とは?」を考えるきっかけになれば嬉しく思います。

さて、前置きが長くなりましたが、ここから

・カメラに興味を持ったきっかけ
・オンライン写真教室の立ち上げ
・事業の壁にぶつかったこと
・挫折を通して気づいたこと

など、「僕とカメラとのかかわり」についてお話ししてみたいと思います。

僕の人柄を知ってもらうことで
他の記事の読み方がちょっとだけ変化するので、
このまま読み進めてもらえると嬉しいです。

アジアの誘惑

兵庫の田舎高校から大阪の大学に進学して半年。18歳の僕は大学の授業とサークル、バイトに明け暮れる毎日を過ごしていました。初めての一人暮らしの高揚感は落ち着き、充実した日々。でも、なにかが足りない。どこかで「心の底から夢中になれるもの」を求めていました。「なにか環境を変えてみたい。そうだ!春休みに海外へ行ってみよう」。大学の食堂で旅行パンフレットを眺めるのが日課になっていた頃、大学生協の本屋で一冊の本と出会いました。アジア貧乏旅行記作家として知られる下川裕治氏が、十数年に及ぶ体験をもとに、アジアを旅するための知恵を詰め込んだ一冊です。

まだ海外に行ったことがなかった僕は、ページをめくるたびにワクワクしました。テレビの旅行番組では決して紹介されることのない、僕の知らないアジアの喧騒と、それを味わうように旅するバックパッカーの姿がそこにありました。

1996年、のちに”失われた20年”と言われる時代の真っただ中。小室ファミリーが音楽市場を席捲し、大学生はポケベルを手にして誰かとつながる快楽を知り始めた時代です。当時の日本はGDP世界2位の先進国で、中国・東南アジアはまだまだ発展途上国でした。テレビでは猿岩石というお笑いコンビが、ユーラシア大陸をヒッチハイクで横断する番組企画にチャレンジしていた。まさか猿岩石の有吉が10年後にテレビ番組の顔になるなんて誰も予想していませんでした。

海外旅行は旅行代理店でツアーに申し込むのが当然の時代。格安航空券という言葉もあまり知られていませんでした。

カタコトの受験英語しか話せないのに、無事に帰ってこられるのか?でも遠く離れた場所へ行ってみたい。そこで僕は何を見るのか?何を感じるのか?まだ見ぬ世界に飛び込んでみたい!

衝動を抑えきれなくなった僕はついに、アルバイトで貯めたお金で「関空⇔バンコク」のチケットを購入。冒険を求めて一人、飛行機に乗り込みました。

初めての海外一人旅は刺激に満ち溢れていました。バンコク周辺を旅する予定が、気づけば3週間でタイ~マレーシア~シンガポールを往復する旅になっていました。1泊200円のドミトリー宿に泊まり、路上の屋台でパッタイ(タイ風焼きそば)を食べ、一日中バンコクの通りを歩く。行き当たりばったりで長距離バスに飛び乗り南の島に向かう。深夜に到着したクアラルンプールでは街中に響き渡るコーランを聞く。マレー鉄道に揺られながら延々と続くゴム畑を眺める。「いま僕は生きている!」そう実感しました。

このバックパッカーの体験が僕の「人生の指針」になりました。世界は広い、僕が知らないことはたくさんある。想定外は大歓迎、積極的に受け入れて楽しみ尽くす。人生はなんとでもなる、という価値観です。海外に出るまで、自分の人生は大学〜就職と社会が決めた生き方を他の人よりちょっと効率的に歩くものだ、と思っていました。しかし、東南アジアで色んな人と出会い、人生は楽しみながらなんとでも生きていけるんだ、とそう感じるようになったのです。

カメラってかっこいいんだ

実は、僕とカメラとの出会いも、この旅でした。僕が持っていったのは「写ルンです」。いわゆる使い捨てのフィルムカメラ1つでした。当時の僕は、「写真は記録用」と考えていたので、高価なカメラを買う理由がなかったんです。「写ルンです」は36枚しかシャッターを押せないので、残り枚数を気にしながら大切に大切に記録しました。

僕が旅行したのは大学の春休み。アジアの安宿街には僕と同じような日本の学生たちがあふれ出す時期です。たまたまドミトリーで同室だったとか、食堂で近くに座ったとか、ふとしたきっかけで知り合った日本人と飲みに行くことがありました。ある日の夜、一緒に食事した数人で繁華街の路地裏を歩きました。薄暗く独特な匂いが漂うアジアの路地裏を歩いていると、大学の写真部に所属するという年上の男性がふと一眼レフを取り出して撮りはじめました。なんてことないビルや自転車。なぜそんなものを撮りたいのかわかりませんでした。やがてもう一人、一眼レフを持っていた女性も、同じようにあたりの風景を撮りはじめました。当時の僕には被写体の魅力とかわからなかったけど、カメラを構える二人の姿に魅せられた。オレンジの街灯が強いコントラストで浮かび上がらせる二人の影が印象的でした。

「カッコいいな」僕は素直にそう思いました。僕が手にしているのは36枚撮ったら終わりの使い捨てカメラ。ジーコジーコとプラスチックのダイヤルでフィルムを巻き上げ、おもちゃのようなシャッター音がするカメラです。彼らのカメラは「カシャ」っと心地よく官能的なシャッター音を響かせています。カメラを構え、ファインダーをのぞき、レンズを操作して、シャッターを押す。まるでダンスを踊るように撮影を楽しんでいました。「カメラが欲しい!」。生まれて初めてそう思った瞬間でした。

初めての一眼レフ

3週間の旅を終え、帰国した僕はすぐに近所のカメラ屋に向かいました。ところが、ショーケースに並んだカメラを眺めてみても違いがよくわからない。そこで店員さんに質問しながら、バンコクで出会った彼らが持っていたのと同じ形のカメラを買うことに。「Canon EOS Kiss」ってロゴが入っていました。テレビCMで聞いたことのある名前だったので少し安心しました。レンズセットで7,8万円だったと思います。当時アルバイトしていた居酒屋のお給料1ヶ月分に相当します。大きな出費に胃がキュッと締まるような感覚を覚えました。

ドキドキしながら一人暮らしの部屋に帰り、カメラを箱から出しておそるおそるシャッターを押してみる。カシャっといい音がします。「あ、あの時の音だ」バンコクの路地裏の光景がよみがえってきました。フィルムを入れていないので何も残らないけれど、シャッター音を聞くだけで気分が高揚した。何か、新しいチカラを手に入れたような不思議な気持ちでした。

とはいえ、それからカメラにハマったわけではありませんでした。大学生活の記憶を振り返っても、カメラを使ったのは毎年春休みに出かけたバックパッカー旅行くらいです。インド・ネパール・トルコ・エジプト・ヨルダン・イスラエル・タイ・アメリカ・カナダ……。色んな国を訪れてはシャッターを切り続けましたが、特に「いい写真」を撮ろうと思っていたわけではありませんでした。フィルムを何本もバックパックに詰め込んだので、枚数を心配する必要はなくなりました。カメラの撮り方は本を読んでなんとなく理解したけど、 いま思えばビギナーレベルです。誰かと写真を見せ合ったりコンテストに出すこともなく、写真の仕上がりにもこだわりはありませんでした。その場所にいる、かけがえのない時間を自分なりに記録できるだけで満足でした。

キヤノンに就職する

勉強・バイト・バックパッカー・パチンコに明け暮れた大学生活も、就職でフィナーレを迎えました。僕が在籍していた電子工学部は、エレクトロニクスいわゆる電気製品の分野。2001年当時はシャープが世界初の液晶テレビを発表したり、三洋電機が有機ELディスプレイに注力したりと、まだまだ日本の総合電機メーカーが世界の技術を引っ張っていた時代。同級生の就職希望は、松下電器、東芝、日立、シャープなどの総合電機メーカーに集中していました。(ここから数年で市場を韓国メーカーにひっくり返されるなんて、誰も思っていませんでした)。

しかし、バックパッカーでみんなと違う行動をとることに味を占めた僕は、同級生に人気の総合電機メーカーには魅力を感じませんでした。もっとコア技術の強みを活かした会社がよいのでは?世の中を何も知らない学生の僕はそんなことを考えながら、自宅のこたつで就職四季報を眺めていました。ボンヤリとページをめくっていると、ふとCanonのロゴが入ったカメラが目に留まりました。「あ、キヤノンがあった!」。当時のキヤノンは光学のコア技術を活かした多角化経営で利益を伸ばしつつある会社で、技術者天国といわれるほどエンジニアが活躍できる環境でした。「ここにしよう!」。僕の就職が決まった瞬間でした。

キヤノンでカメラ開発の仕事をする

同期600人の新入社員研修を終えて、僕が配属されたのは一眼レフをはじめとするキヤノン製品のキーデバイス(電化製品の中核を担う部品)を開発する部署でした。電子回路設計をやりたかった僕にとって、ほぼ希望が通った形です。最初の数年はとにかく楽しかった。国内外の専門書を読み漁っては回路設計に必要な知識を吸収し、仕事を進めるうえで欠かせないロジックや説明力を先輩から教わり、社会人としてエンジニアとしての基礎を固めていきました。仕事内容も個人の裁量が大きく、自分が担当する製品のスケジュール管理から他部門との調整まで、様々なことを経験させてもらいました。

入社してから5年後、僕が初めてオートフォーカス部分を担当したカメラが発売されました。2007年発売のデジタル一眼レフ「EOS 40D」です。製品が掲載されたウェブサイトを何度も眺め、カタログを大事に取っておきました。自分のアイデアが形になって世の中に出ていくことに、この上ない喜びを感じました。その後も、キヤノンのデジタル一眼レフのオートフォーカスを担当し、ラインナップのほとんどの機種は僕がなんらかのかかわりを持つようになりました。エンジニアという仕事は天職だと実感していました。

結婚して子供も生まれ、同期では早めに昇給試験に受かり、順風満帆に見えたエンジニアライフでした。ところが30歳の節目が見えてきたとき、仕事だけでは満たされない何かを意識するようになりました。

このころ、自分の価値観を棚卸しして見えたものは「アイデアを形にすること、そして、それを人々に喜んでもらうこと」。前半の「アイデアを形にすること」はエンジニアの仕事で十分満たされていました。課題は後半です。というのも、僕が手掛けた製品とエンドユーザーの接点は、量販店の売り場でカメラを手にした人を遠目に眺めるくらい。できれば近くに寄って「それいいでしょー」って話してみたい。もっとカメラを使っている人と近い距離で仕事ができたら。ずっとそう感じていたのでした。

また、自分の仕事観が揺らぐ出来事もありました。ある日、大学時代の友人から「子供が生まれたので、ちゃんとしたカメラが欲しいけどなにがいい?」と相談されました。そこで僕が開発に関わったデジタル一眼レフを勧め、友人はそのカメラを購入してくれました。ところが何ヶ月か経って、「どう?写真撮ってる?」と聞くと、「いや、カメラが難しくて使いこなせないから、結局コンデジしか使っていない」と言われました。はっきり言ってショックでした。

カメラの開発って一般の人が思っているより遥かに多くの人の知恵と労力が費やされています。僕が関わる小さな部品だけでも10人近い技術者が来る日も来る日も試作品を検証して、ようやく従来より高性能なカメラを世に送り出します。けれど、せっかく高いお金を払って購入してくれた人が、使いこなせないことが原因でカメラを放置するなんて。期待してカメラを手にしてくれた人に申し訳ないし、せっかくの高性能なカメラが使われないまま埋もれていくことも悲しかった。そんな現実をよそに、カメラメーカーは利益が大事なので、より売れる高性能なカメラを作り続ける。「このギャップはどうにかならないのか?」。しかし、メーカーの一社員である当時の自分に何かできるわけもなく、僕の中にしこりとして残り続けました。

フォトアドバイスをスタートする

そのころ、インターネットの世界ではmixiというサービスが普及しSNS時代がスタートしていました。ややこしいHTMLやCGIを書かなくても、世の中に自分の意見を発信して、誰かとつながれる時代がやってきたのです。高速デジタルデータ通信技術であるADSLを使ったネットの常時接続は広く普及し、個人でもインターネットを使えば何かができるかも……と予感させました。

ある日、妻がネットで見つけたダイエット教材を買いたいと言ってきました。見れば、「簡単に痩せる!」「必ず痩せる!」といった煽り文句が並ぶ販売ページでした。怪しいと思いながらも妻の説得に負け、1万円で購入することに。すると届いたのはなんと簡単なPDF資料だけ。「こんなものでも商売って成り立つんだ」「僕ならもっといいものができるかも」。インターネットを使ったビジネスに興味を持つきっかけでした。

さっそく、僕もやってみよう!と取り掛かったものの、何からはじめていいかわかりませんでした。いまならネットで検索すれば、マーケティング、コピーライティングといった知識が簡単に手に入ります。しかし当時はどこを探してもそうした情報はなかった。そこで、知り合いのツテを頼りに、インターネットでビジネスを行う起業家のコミュニティに参加してみることにしました。コミュニティの先輩からはこんなことを言われました。「カメラを作っているんだったら、写真の撮り方を教えたらいいじゃないですか」。「それってニーズあるんですか?」と聞き返すと「あるある、僕も教えてほしい」と反応がありました。

「カメラを使いこなせない人に何かできないか?」。僕自身が抱えていた課題とニーズが一致したその瞬間、ビジネステーマがズバっと決まりました。事業名は写真を教えるから「フォトアドバイス」。僕の名前は会社にバレるとまずいから、妻の旧姓と息子の名前を合わせて「佐藤孝太郎」にしよう。この思いつきで決めたフォトアドバイスと佐藤孝太郎が、まさか十数年も続き、人生をかけて取り組むテーマになるとは思ってもいませんでした。

フォトアドバイスの立ち上げ

こうして新規事業「フォトアドバイス」がスタートしました。この時、僕は30歳。基本スタイルはウェブ広告でお客さんに知ってもらい、販売ページを見てもらって、写真上達の方法を解説したDVDを販売する、という通信販売の事業です。

スタートした当初は販売ページの仕上がりがイマイチで、広告費を10万円かけたのに売上は5万円といった具合で、鳴かず飛ばずの日比でした。結果を出せない焦りに加え、生まれたばかりの双子の育児にも忙殺され、起業をあきらめかけたこともありました。受験や昇給試験を乗り越えた成功体験から、「努力と工夫でなんとかなる」という価値観を持っていた僕にとって、答えがわからずにもがき続ける状況はとても苦しいものでした。

それでも「この状況を突破すれば、きっと何かが変わる!」と信じ、少しずつ改善作業を積み上げていきました。通勤電車の中で販売ページの原稿を書いたり、会社帰りにカフェでお客さんの問い合わせに返信したり。コツコツと小さな作業を続けること1年。販売ページを見てくれたお客さんの購入率が上がってきたことに気づきました。

ほどなくして広告費を売上が上回り、利益を出せるようになりました。先行きが見えなかった状況から雲が晴れたように、ビジネスをコントロールできる気分になった。やればできる!31歳でようやく掴んだ成功体験を通して、僕は自分に自信を持てるようになりました。

独立する

DVDの通信販売事業が軌道に乗り、多くのお客さんにDVDを買っていただきましたが、また新たな課題も見えてきました。DVDの内容がビギナー向けだったので、ある程度カメラ経験を持つお客さんに対応できなくなっていたのです。そこでプロ写真家に協力してもらい、新しいDVD教材を制作することにしました。今でも一緒にお仕事をしてくださっている写真家の先生方です。

先生方とじっくりお話しして、「風景」「人物」「花」などそれぞれの強みや実績を活かしたテーマを考えました。DVD教材制作はセミナーを録画する形式で行うことにしました。会議室を予約して、映像制作の業者を手配して、メルマガで参加者を募集して。会社を定時に出て、カフェで打ち合わせしたり、案内文を書いたり。目が回るほど忙しかったけれど、次のステージの扉が目の前に見えているような高揚感がありました。

そうして完成した新作DVD。過去にDVDを購入してくれたお客さんに案内したところ、予想を上回る反響がありました。僕も写真家の先生も手応えを感じ、DVD教材をシリーズで制作することになりました。そのおかげで売り上げ規模が一気に大きくなったので、フォトアドバイスの事業を法人化しました。年間1000万円以上を広告費につぎ込んでいたので、手元に残る利益はわずかでしたが、会社員でありながら自分の会社を持っているという事実は誇らしかったです。

そんな折、知人の先輩経営者たちと香港に旅行する機会がありました。せっかくの機会なので、自分の事業についてアドバイスをもらいたい!と思い、数年後を見通した事業計画書を書き上げて持参しました。改善点とか具体的なアドバイスを期待していたのですが、その答えは意外なものでした。

僕「この計画、どうですかね?」

先輩A「これ本気でやりたいと思っている?なんていうか、熱量を感じないんだよね」

僕「えっ!?」

それまで、ビジネスは形だと思っていました。本業である電子回路設計のようにシンプルながら機能を満たす美しい形を描けばよい、そう思っていました。熱量ってなんだ?美しいビジネスモデルを考えて、あとはそれを形にするだけなんじゃないか?最初はアドバイスの意味がわかりませんでした。

時間をおいて少し考えてみました。その当時は「副業サラリーマン」が僕のアイデンティティでした。でも「サラリーマンを辞めたら、僕の人生はどうなるんだろう…」って考えはじめたんですね。

そこで、同行していたもう1人の先輩経営者に聞いてみることに。この人は僕が長年目標にしていた、副業でいくつも事業を経営するスーパーサラリーマンでしたが、東日本大震災の翌年にサクッと独立していました。

僕「なんでサラリーマンを辞めたんですか?」

先輩B「人生をおもしろおかしく生きるためですよ!」

想定外の答えでした。堅実で人生を踏み外さないと思っていた人から「おもしろおかしく生きる」という言葉を聞くなんて…。

その夜は先輩たちと別れ、1人で香港の夜景を一望できるビクトリアピークに向かいました。キラキラ輝くイルミネーションを眺めながら、僕は自分に問いかけました。

「これから、どうしたい?」

人生をかけた答えがすぐに出るはずもなく、しばらくぼーっと眼下に広がる美しい夜を目に焼き付けていました。林立するビル群を鮮やかに彩るネオン、周りにいる観光客の会話が奏でる異国のBGM。じとっと身体にまとわりつく湿気を含んだ空気。僕は今、異国の地にいる。この景色は僕に何を語りかけてるんだろう。僕は、自分の中のどんな声を聴けば後悔しないんだろう……。

どのくらい経ったでしょうか。頬を撫でる夜風が涼しく感じられるようになったころ、僕は一つの答えにたどり着きました。

「どうなるかわからないけど、やってみたい!自分の力を試したい」

それが僕の心の声でした。

香港から戻って半年後、子供が寝静まった夜に妻とリビングで向かい合い、僕はこう切りだしました。

「考えたんだけど、会社を辞めようかと思っている」

当然反対されると思っていましたが、意外にも妻は賛成してくれました。家族さえしっかり養ってくれれば、好きにやっていいと背中を押してくれたのです。僕のことを信じてくれた妻。心の底からありがたかったです。この家族を守るためにも、もう引き返せない、やるしかない!人生の転機が訪れた36歳の春でした。

学ぶ - 撮る - つながる

会社員を辞めて最初に取り組んだのはサービスの再設計です。2014年当時、Youtubeなど動画配信サービスが一般化しはじめて、DVDの通信販売に限界を感じていたからです。また、SNSが普及して知らない人同士がネットでつながるのが当たり前の時代になっていたので、これらを活かした新しいサービスを創りたい!と強く思うようになっていました。

まずは、フォトアドバイスが提供する価値を「写真上達」から「学ぶ-撮る-つながる」に再定義しました。「いい写真を撮る、それを通してつながりが広がり、人生が楽しくなる」という文脈です。新しいコンセプトはスタッフみんなで話し合いながら作りました。特に「つながり」という概念は、ストイックで人付き合いが苦手な僕には全く出てこない発想でした。感受性豊かなスタッフに感謝しました。

それから、新しい定義に基づいて、会員限定の写真投稿サイトを開発しました。ありがたいことに、仕様策定から業者選定まで、システム開発に強い知人が手伝ってくれました。今では数千人が登録して、何十万枚もの写真がシェアされている「PHOTODAYS」です。

PHOTODAYSリンク … https://www.photodays.jp/

さらにオンライン講座とSNSを組み合わせて、世の中にない写真実践講座も企画しました。写真実践講座の第一弾は全国から660人が参加する大盛況ぶりでした。オンラインでの学びに加えて、オフラインでも関西や九州をまわって受講生とお会いしましたが。どの会場でも皆さんが熱狂的に迎え入れてくれたのが嬉しかったです。

ちっぽけなプライドを捨てて気づいたこと

順風満帆なスタートを切ったかのように書きましたが、実は会社の業績は思わしくありませんでした。企業当初に比べてネット広告の単価が大幅に上昇していたため、以前のように利益を出せなくなっていたからです。それに加えて、新しいスタッフの人件費やセミナールームを備えたオフィスの家賃など固定費が重くのしかかっていました。固定費をまかなうために目先の売上を上げないといけない状況。まるで水の中で溺れかけているような感覚。客観的に見れば、スタッフを減らしてオフィスを小さくするといったリストラを断行して生き残りを模索しないといけない状況でした。

当時の僕は悩み苦しんでいました。せっかくここまで何年も積み上げてきて、先生方・スタッフ・受講生さんたちも期待してくれているのに…。いまリストラなんかしたら、みんなに「あいつもたいしたことなかったな」と見切りをつけられるんじゃないか。この期に及んで、僕は周りからどう思われるか?を気にしていたんです。ちっぽけなプライドが邪魔してリストラに踏み切れませんでした。

自分ではどうすればいいかわからず、先輩の経営者に会って話を聞いてもらいました。都内のスターバックスで僕と先輩は向かい合って座りました。僕は最初のうちはカッコつけて、この状況をよくする方法について質問していました。でも経験豊富な人にはそういう態度って見抜かれるみたいです。

「状況はわかった。で、君はどうしたいの?」と、聞かれました。

僕は「よりよい方法を質問しているのに、なんで僕がやりたいことなんて聞くんだろう?」と混乱しました。

でも会話していく中で、結局のところシンプルな2択なんだと気付きました。「僕のプライドを優先してこのまま自滅する」のか、それとも「プライドを捨てて生き残るためにリストラする」のか。

僕がこれに気づくように先輩は「君はどうしたいの?」って質問してくれたんだなと。

僕は嫌なことや苦しいことがあっても人に弱音を吐かないタイプでした。自分の力で状況を切り拓くことで、周りから「すごいね」って言われることを誇りにしていました。弱音を吐くのは自分はダメな人間だって認めること。僕はそんな人間じゃない、本来はもっと高みに行けるはず、でもどうすればいいかわからない。

賑やかな店内のはずが音のない世界に変わりました。頭とお腹が混ざり合ってグルグルまわる感覚を覚えました。そして「『大丈夫だ』って言ってほしい……」って言葉が僕の口から出ました。生まれてはじめて人に弱音を吐きました。

お腹から熱いものがグッとこみ上げてきました。前を向くとさっきまで真剣な顔をしていた先輩が微笑んでいました。「ようやく言えたね、もう大丈夫!」と手を握ってくれました。

そこからはやるべきことをやるだけでした。腹をくくって固定費とプライドの象徴だったオフィスを手放すことにしたのです。オフィスの解約通知を不動産会社に送ったときのことは、いまでも鮮明に覚えています。解約通知の用紙がFAXに飲み込まれて、ピーっと通信完了を知らせる音が鳴ったとき、僕を縛り付けていたものがバラバラとほどけたように感じました。

翌週のミーティングで写真家の先生方に頭を下げて「こうした状況ですが、どうかこれからも協力してください」とお願いしました。スタッフも必要な人員を残して辞めていただきました。オフィスも小さくて家賃の安い場所に引っ越しました。「ああ、これで僕はひとりぼっちになってしまうかもしれない」。僕はみんなから非難されて、みんながいなくなることを恐れていましたが、先生方も受講生のみなさんも変わらず応援してくれました。

そうか、僕は今までなんでも一人で抱えて一人でやってきたと思っていたけれど、本当はみんなが支えてくれていたんだ。大事なことに気付かされました。

僕にとってカメラとは

当初、僕にとってカメラは「飯の種」でした。本業のエンジニアでは自分の技術を発揮する対象としてカメラを扱い、副業のフォトアドバイスではサービスの対象としてカメラを扱っていました。しかし、写真家の先生や受講生さんたちと交流するうちに、僕にとってカメラの位置づけが変わってきました。

元々、僕はそんなに人付き合いが得意ではありません。むしろ一人で本を読んだり考え事をしたりするほうが好きな性格です。大勢の前に立ってもたいした話はできないし、悩んでいる人に深く寄り添うことも、情熱的に人を動かすことも苦手です。

フォトアドバイスでも僕は裏方で仕組みを作ることに専念していました。写真家の先生と受講生さんに信頼関係を築いてもらうことばかり考えていました。あくまでも価値を作っているのは写真家の先生、僕にはたいした価値はない、存在しても存在しなくてもどっちでもいい。そう思っていました。

けれどある日、写真家の先生の一人が「いまこうして活躍できるのは、あんたのおかげだよ」と言ってくれました。ある受講生さんが「このような場所を作ってくれてありがとうございます」と言ってくれました。僕は存在を消して、裏方に徹していたのに、いつのまにか先生や受講生さんたちが僕のことを信じてくれていた。人から信頼される、愛されることに慣れていない僕は、こっぱずかしいと感じながらも、ちょっと嬉しさを感じました。

カメラが育む「つながり」

今の僕にとって、カメラはただの飯の種ではありません。

僕は人見知りだけど、相手のことをもっと知りたい、もっと仲良くなりたいという願いがあります。でも会話の中心になって話題を盛り上げたり、相手の心を深く理解して癒やすような会話はできません。生まれつき相手の感情を理解するのが苦手で、どうしても自分本意な発言になってしまうことを恐れているからです。僕は人と話すとき、知り合いにはなれてもあるところから仲良くなれないんだ。僕と話をしてつまらない気持ちにさせるのが申し訳ない。そういう劣等感を持っています。

でも、フォトアドバイスを通して、こんな僕でも信頼してくれる、愛してくれる人たちがいる。そんな「つながり」を実感することができました。これからも「僕ができる精一杯のことで、カメラを手にした方々に”つながる喜び”を感じてもらいたい」。そう考えています。

僕にとってカメラとは、人生を通して無意識に求めていた「つながり」を育んでくれるものです。


最後まで読んでくださり、ありがとうございました。このnoteではこんな僕がカメラを通して見ている世界、カメラのある自由なライフスタイルを楽しんでいる様子をお届けしています。「へ~、こんな生き方もあるんだ。なんか楽しそう」。読んでくれた方にそう思っていただければ、とても嬉しく思います。

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