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「続・ポルノグラフィティ」発表の新曲について あなたがいないあさから わたしのいないよるまで 本気出して考えてみた【後編】

 前編では主に「メビウス」(と「ウォーカー」)についての解釈を綴った。この後編では「ナンバー」、そして、この2曲の関連について考えていきたい。


「ナンバー」とは“愛への諦観”

 前編同様、結論から述べてしまうと以上である。以下に解釈した要素を並べていく。なお、執筆の都合上、歌詞の順序通りに解釈をしていないが了承願いたい。


主人公と世界観

 クラシック調のレコードを再生したような、どこか戯曲めいたイントロから繰り出される、寓話のような雰囲気が漂う。牧歌的ともいえる情景描写は「フラワー」に通じるものを感じとることができるだろう。

僕は蝶の視点を借り 芦毛の背にとまっている

 補足すると芦毛、とは灰色をした馬(または馬の尾)のことを指す。「ナンバー」の歌詞は「僕」の精神世界を写したものだろう。新曲はどちらも内省的である。


数字の欠けた世界

 愛情の飢餓=空腹に陥り、数字を食べてしまった「ウサギ」こそが「メビウス」の主人公なのではないか、と考えた。

腹ペコなウサギが数字を食って 赤い目で泣いている

 前編で述べた通り、「メビウス」では継続していたものを中断する様子が随所に描かれる。“あかいめ”は“とじてしまっていいよ”、と呼びかけられている。凝視し続けたウサギ(=わたし)の乾燥した“あかいめ”からは、必然的に涙が流れるだろう。単に赤い目をしたウサギが泣いているという情景描写や、音合わせのための語という可能性も大いにある。しかし、新曲2曲に同じフレーズが登場するのは相互のセルフオマージュを意図しているのではないか(と私はこじ付けたい)。そもそも、数字を食べる、とはどういう状態を指しているのだろうか。私は、数字=(愛した)時間・記憶のことであると解釈した。このように理解すれば「腹ペコなウサギ」が他の食べ物ではなく「数字」を食べたことにも納得できる。

悪戯なキツネが数字を盗む
「そんなもの置いてゆけ」

 そして、愛が「こわれてしまった」後であれば、愛そのものは“そんなもの”と吐き捨てられるものになってしまうだろう。

ゆらゆらと揺れるあの虹も
時が経てば消えてゆくもの    そうだろ?

 また、上記のフレーズは昭仁さん作詞の「Swing」の一節で、結末こそ恐ろしく、今回の新曲とは異なるもの(「君を忘れてしまおう」)だが、この心情については重なるものがあるだろう。


いずれ訪れる「Wasted love」に変化してしまうことへの懺悔

まだ何も知らずにいれた僕の残像

 いずれ、この愛情が「Wasted love」になることを知らずにいれた時点の自分を指しているものと解釈できる。前編で触れた「愛が呼ぶほうへ」的な愛情とは、この“残像”を指すのではないか。

いつものように遠出をして    帰り道が消えてしまい


 その人との関係を進展させようとした(遠出をした)が失敗し、2人の間にあった関係(=帰り道)が消えた、ということだろうか。また、他人を考えるあまり自分を見失ったことを“帰り道”が消えてしまった、と表現しているのだろうか。また、「いつものように」という文言は2曲に共通する題材として挙げられる「永遠」を指しているものだと考えられる。

    「メビウス」における“わたし”は「チャイムがなっている うちにかえらなくちゃ」いけないにも関わらず、「あなたがいないあさから わたしのいないよるまで」を繋げて、永遠に続くものにしてしまう。チャイムとは夕刻を知らせるものとして鳴り響く。それ以降は「夜」という危険な時間帯に差し掛かるため、チャイムは安全と危険の境界線のメタファーとして捉えて良いだろう。二人にとって危険な領域まで進んでしまい、崩壊してしまった愛情。それ以前の関係性に戻らない(引き返せない)のであれば、せめて自分の中でだけでも美しいものとして留めておきたい。そういった心情から円環(メビウスの輪)の中に閉じ込めてしまうのではないか。


繰り返される“よくある話”

 愛が終わってしまい、曲は終盤へ向かっていくことになるが、終盤のテーマとは終点の先にある始点、そしてそれが反復してしまう永続性である。

あの日から寂しい夜を数え続ける

 単に数えるのではなく、数え“続ける”ということから、これも永続性(=「メビウスのわ」)を表現しているのではないかと考えられる。

けれど花は咲くのだろう 熊は春に目覚めるだろう

 一度自分を見失っても、つまり、他の人に夢中になって、それが冷めて「Wasted love」(冬=終わりの季節)になっても、また春(新しい季節)が訪れて新しい愛に目覚めていく。月と同じく、欠ければ満ちていき、満ちれば欠けていく。
 そして、以下は「フィルムズ」の一節だが、春から冬に(残酷にも)巡っていく季節を愛の萌芽と消滅に喩えた歌詞がなんとも印象的である。一度気づいてしまった感情は、まさしく微熱のように頭の中にぼんやりとした、“消えない憧れ”を写し続ける。あなたへの憧れが強烈であるが故に、いくら待てど私には新しい春(=出逢い)が来ない、と嘆いているのであろうか。このように解釈すると、「フィルムズ」の世界観は「ナンバー」よりも「メビウス」に近いものだと考えられる。

覚めぬ夢の微熱とは消えない憧れ
待てど春は来ず 夏はまた秋をよび
長すぎる冬に咲く恋も果てた


 曲の冒頭に戻るようで申し訳ないのだが、「数字」そして「猫」というキーワードから連想できるのは「何度も」であろう。「何度も」の中では恋愛における駆け引きを、数字の足し引きに置き換えて表現している。

みんな誰かに出逢って そして時には惹かれあって
でも少し嫌いになって また好きも少し増えて
足したり引いたり 今いくつだろ

 恋愛の反復については、お馴染み「サウダージ」の中では、「よくある話」として一言で片付けられてしまっている。出逢って別れて…という、まさしくメビウスの輪のようなサイクルは人が生きていく限り反復されるものなのだろう。

繰り返される よくある話 出逢いと別れ
泣くも笑うも好きも嫌いも…

   


愛を求めて漂流する流浪の子

 度々思い返される「メビウス」内の一節「チャイムがなっている うちにかえらなくちゃ」は、ひらがな表記により、「チャイムが鳴っている内に帰らなくちゃ」または「チャイムが鳴っている。(だから)家に帰らなくちゃ」という二通りの解釈が可能だ。しかし、既に述べたように「ナンバー」も「メビウス」でも、主人公は“帰れない”状況にある。

君なのにさよなら お別れね
僕の帰る場所は今やもう 君の心の中にはないのでしょう
流浪の子よ せめて泣かないで
あんなにも愛してた日々を誇れ

 これは「フィルムズ」の一節だが、ここに登場する「僕」も帰る場所を失っている。悲観的な別離、という主題は新曲の2曲にも見られる。また、新曲からは少し離れるが、この“流浪の子”という表現は「Free and Freedom」における主人公が自由や愛を求めて「漂流」している様子と重なる。今回のツアーでセットリストに「ウォーカー」や「Free and Freedom」を組み込んだのは、ポルノグラフィティ は今後も自由を求めて歩き続けて(活動して)いく(そして長らく演奏していなかった曲に“魂を注入する”)、といった意図によるものであろう。しかし、新曲制作にあたって既存の楽曲をモチーフとして取り入れることも容易に考えられることだろう。これを踏まえると、「ナンバー」の主人公は、再び愛への漂流を始める「流浪の子」と考えることができるだろう。

数えるのではなく欠けるの知っているの

 前半では愛が満ちていくのを待っていた“僕”だが、その愛はいつか欠けてしまうことを理解している。諸行無常の様相を呈示しながら「ナンバー」は終わりを迎える。


前編を併せた総括

 「ナンバー」も「メビウス」の世界もどちらも永遠の中に存在するものだが、「ナンバー」については出会ったら別れるもの、という文脈での諦観が伺える。この二曲の世界観は「永遠」という意味で表裏一体であり、「メビウス」の世界は二人を永遠の中に閉じ込めてしまうものだが、「ナンバー」の世界では相手を変えながら同じことを“いつものように”永遠に繰り返していくのだろう。

 結果として「ナンバー」を元に「メビウス」を深掘りする形となってしまったことを謝罪したい。私が伝えたいこととは、これだけ想像させる余地のある歌詞を書き上げ、独自の世界観を創り上げるポルノグラフィティの能力の高さである。何より、今からこの2曲のリリースが楽しみで仕方ない。この文章を読んだあなたもポルノグラフィティの「続」を感じて、そして、その胸を震わせて頂ければありがたい。

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