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「どうして?」

648回目です。φです。

もう2月ですね!気持ちの面でばたばたとしていたら、あっという間に終わった1月。2月はやろうと考えていることがたくさんあるので、これまたあっという間に終わるかもしれません(笑)

さて先日英検を受けまして、ある程度予想していたけれどそれを華麗に上回ってくれました、英検。悪い意味で。

ほうれんそう、って知ってる?と言いたくなる感じとか。どうして連絡されてないんでしょうね、不思議だよいっそ。と言いたくなる具合でしたが、まぁ終わって「『英語で世界を~』なんて言ってるけれど、そこら辺の世界基準は採用していないんだろうなぁ」と思ったり。

終わったことをうだうだ言っても意味はない。聴覚や諸々の不便さを感じている私の、ちょっとしたレポートと「これがあれば」という思いを込めて、つらつらと書いていこうと思う。


まずスタートから顔面ぶつけた感じだった。最初の本人確認のとき、「配慮のお願いを事前にしているので、イヤーマフとブルーライトカットの眼鏡を使用します」と伝えた。すると「なにそれ?」みたいな反応。

で、実際のものを見せて説明するも、「は?」みたいな反応で。不審がられながら、受付の方は本部へ連絡。まったくスムーズに進まなくて、「またかー」と笑うしかなかった。

以前は別のスタイルでのテストを受けて、席の指定云々でコピーした配慮の紙を見せると「なにそれ?」みたいな反応をされた。ちなみに受付でも、試験監督にも。

で、かなり待たされた後、「確認が取れました」「持ち込むものを確認します、見せてください」と、なんだかなぁな対応。数分前に見せたじゃない私。なぜ名簿を持っていても本部に連絡して確認しないと分からないようなことなの。本部から電話連絡きて色々話したのに。あの時間は一体。

この「はぁ?」みたいな対応、正直私は慣れてきました。「はぁ?」に対して「は?」と言いたくなるけれど、そこら辺抑えて「確認していただけますか?」と笑顔で言える私、だいぶ偉いと思う。偉いよ私。うん。

現地で事件勃発させるわけにはいかない。それは避けたい。お互いに良くないもの。…と思って、私は事前にそれなりに準備する。けれど、それが連絡されていなくて、「何言ってるのこの人」みたいな扱いを受ける。なんだかなぁ。

人によって異なるけれど、「自分が想定していたものと異なる状況」がすごく心に重くのしかかって、いつも通りにできなくなる人もいるのです。「どうして?」が心からずっと離れない人もいる。急な展開を誰もが受け止められるわけでもない。

誰もが実力を出し切って、公平に試験を受けるために。試験会場に関わる人には、そういった認識を持ってほしいし、その心得みたいなものを知っておいてほしい。私はそう思います。

テスト自体も、何かと私には困難が付きまとった。例えば文字のフォント。太文字に近くて、文字が「ドーン!」と目に乗り込んでくる感じ。ブルーライトカットの眼鏡でようやく認識できる画面ですが、なんというか読みづらい。どことどこが隙間なのか分からなくなるシーンもたくさんあって、それはそれは難しかった。

文字が詰まっていると読めない。読むのに時間がかかる。けれど、私は視覚で障害手帳とかを取っていない。だから、視覚に関する申請はほぼ通らない。

「文字が読みにくい?」と不思議に思う人にはなかなか説明が難しいのだけど、その読みにくさはどう工夫しても乗り越えられないもので、けれどテストには影響してほしくないんですよね、実力云々の前の問題ですもの。「文字が見えにくいから5点あげて!」とかじゃないのだから、配慮があっていいじゃない…と正直思う。通らないのだけれど。

「ベターなコンディションで試験を受ける権利をください」が、すべての試験において私は訴えたい。多くが読める文字を、誰もが読めるわけじゃない。多くができるから誰もができる、というわけじゃないもの。

とーてーも古い話になるけれど、私はアメリカの幼稚園に不正な具合に参加していました。年齢は基準に満たない。けれどsiblingが通う幼稚園に行って、お絵かきとか遊びとかを幼稚園児たちと同等にやって、楽しそうだったから幼稚園来ていいよ。そんなゆるっとした感じで、参加。

方針は「この子は~だから。」というスタイル。放任主義とも言う(笑)

だから、私はあんまりコミュニケーション取らなくても「まぁこの子だから」で終わったし、永遠と絵を描いていても「絵が好きならずっと描きなさい、妨げる理由はない」で遠くから眺められていました。

この例は教育だし、今回のテストとは異なる状況です。でも、「ベターなものを」「合ったものを」というスタイルは、どの場面においても重要だと私は思う。わざわざ不利になる状況に置く必要はないのです。

個々人に合うものを提供することは簡単ではない。個人からの申請をいちいち聞かないといけないし、それに合わせて準備しないといけない。時間もコストもかかるだろう。労力も。

けれど、それが長期的な視点ではプラスになるのだと私は思う。まぁその長期プランが面倒だからこそマニュアル化されたものがあって、誰もが同じ働きをするようにと強いられているのであって、「誰でも良い」というものにすらなってしまったのだと思うけれども。個性をつぶすには、個人の能力を問わないようにするには、マニュアル化程効率の良いものはありません。

少々道は逸れましたが、あらゆる障がいを持つ人、困難を持つ人が「不利だなぁ」と思いながら受けるとか、「これはやめておこう、自分にはできないだろう」とためらってしまうとか、そんなことがない社会になってほしいですね。心からそう思います。

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