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自分の成長か、あちらの後進か。

 421回目です。φです。

 今日は部分月食の日です。これを逃すと、次は2030年6月1日なのだとか。10年後かぁ。

 私は見ようと試みましたが、明るすぎて空を見ることができませんでしたー!残念!

 編集された動画でも見て、実際に見た気分になっておこうと思います。太陽見るのって難しい。しばらく目が使えなくなるし。

 みなさんは見ることができましたか?曇っている地域もあったようで、見ることができた人はおめでとうございます!

 さて、私が今日は部分月食であると同時に、夏至の日でもありますね。一年で最も太陽が長くとどまって、夜が短い。

 太陽的には「うわー明日寝坊したーい!」とか思ってたら面白いなぁ。睡眠時間大事です(笑)

 なぜ私が太陽や暦に思いを馳せているかというと、まぁ現実逃避したくなることが多発しているのです。うん、連発って感じに。ちょっとそれについて、書いていこうかなぁ。相手が子供に戻っているよりも、自分が大人になったと考えたい。


  年々思うことがある。自分の親が「自己中心的になってきたなぁ」ということ。そして「昔は違う意見だったのになぁ」ということ。

 いや、私が記憶するものでもなかなか「さっきと言っていたことが違う」とか、「急に不機嫌になる」とか。色々ありましたが。

 それでも子どものことをそれなりに優先してくれたし、きっと彼らに我慢を強いたこともあるだろう。当時の私。

 このコロナの時期になって、家にいることが長くなって。より一層分かってしまったこと。

 「あの人は人の庭や庭の花のことばっかり見ているんだろうね。人の家をじろじろ見てさ」「口を開けたら庭のことばっかり!それしか頭にないんじゃないか!」「しつこい」、などなど、私の祖母に対する母親の意見を私は物心ついた頃から聴かされてきました。今でもね!

 しかしながら、最近母親はガーデニングにハマったらしく、口を開ければ「庭に〇〇を植えたい」「あの庭の花なんだろう」「あの人の庭、手入れが足りない」「家の庭、自分の花をたくさん植えたいのに」の言葉たち。…あら?

 ちなみに私は口を挟みません。挟んだって意味がないもの…大声の独り言のような話を、耳をふさぎたいと思いながら聴いてる。時々返事をしないと「聴いてよ!」と言われるし、突然不機嫌になる。

 一度あまりにも悪口な内容になったので、「前はその話聞きたくもないって言ってたね~」と半ば笑いながら言うと、まぁキレられました。道中スルーされ続けましたね。うおおい!

 自分が話したいことを話す。その話したいことはかつて自分が批判したものであっても、今の自分が話したければ話す。そんな感じなのだろう。

 私が声が大きいからもう少し小さく、と言ってもキレる。きっと自分の話したいことを遮られて、ケチをつけられたように感じるんだろう。自分の声の大きさは自分が話し声に使いたい大きさであるんだろう。

 ちょっと話はそれるけれど、家に最近しばしば虫が出ます。夏だしね!

 その虫をつぶして、と言われるのですが、「ちょっと忙しいから自分でやって」と言うと、「手が汚れるし自分じゃやりたくないから呼んでる」と言われたときはもう”開いた口が塞がらない”を体現してしまいました私。開けっ放しだよ口。

 我が家の家訓のように言われ続ける「人を思って行動する。自分がされた嫌なことは人にしない。」とは…なんだったんでしょうね…

 今でも母親は「私は人のためにやってあげられることはやってあげるし、嫌なことは絶対しない。だから友達が多い」と誇っています。うん、なんだろう。非常にツッコみたい。漫才師のように。

 私が幼少期から今に至るまで言われ続けたことは、言っている本人たちによって覆されている。それを知ってしまった。

 これが「歳を取った」ということかなぁ。なんて思うときもある。けれど、年齢によって益々人間性が高まる人もいるし、私自身年齢はただの数字であって、人を定義する際に用いるものではないと思っています。

 新しい人との関わりが減って、自分の考えに近い人としか関わらなくなって、考えが固執しやすいのかな。固着というか。自分の周りも同じ意見で、「自分が正しい。自分の周りもそう言っている」になるのだろうか。

 時々、自分の親ってこんなに子どものように他の事を考えない人だったのかな、と思う。

 すべての子どもがそうではないけれど、子どもは自分のことを考えるだけで手一杯です。だからこそ子どもらしさがあって、彼らはそれを社会的交流などを通して「自分ではない他者」を認識する。

 それで、段々と「大人」になっていく。社会性を身に着けて、自分がどうあるものなのかを知っていく。体得していって、子どもは大人へと成長する。私はそう思っています。

 大人になって、社会が離れていくことで、子どもに戻るのだろうか。人は社会と関わっていなければ、子どもに戻るのだろうか。

 自分を育てた人が子どもになっていく。なんだかそれを見続けるのは嫌なものです。嫌、というか。なんだろう。

 それか、自分が大人になったか。自分がこの時代を生きる大人になったからこそ、色々な面から判断できるようになって、親を「家族としてではなく、ひとりの人間として」見るようになって、「子どもとしての自分」ではない「大人の自分」が判断しているからだろうか。

 こっちの方がいいなぁ。自分が成長したからこそ、そう思えているだけ。自分の成長も感じられるし、親への落胆や失望、その他諸々は考えなくて済む。

 ううむ、落胆でも失望でもないのかなぁ、この感情。そこまで期待はしていないし、血のつながり云々は考えたことが正直あまりない。

 子どもの頃から「何がきっかけで無視されるか分からない」という思いはずっとあるし、「もういいや、無視されても」という思いも続いている。家族に関して、「自分以外の人間」という認識なのも変わりがない。

 考えすぎると、ろくでもない方向の新しい見解を見つけてしまうかもしれない。よしここまでにしよう。考えないということも、ひとつの自衛です(笑)

 しかしながら、このコロナというのは本当に人について考えさせるウイルスだ。このウイルスへの対応で人間性だって分かってしまうし、その人が何を一番に思っているかすら分かってしまう。あぶり出す、私はコロナにそんな印象すらあります。

 なんでもかんでも「コロナのせいだー!帰れー!」とコロナウイルスに言うのも、コロナ的にもちょっと困るかもしれない。「冤罪だ!」って言われちゃうかも(笑)

 まぁコロナさんは口を持たないので、ちょっとした言いがかりくらいはつけさせて頂きたい。現実逃避の口実に使わせてもらおう。うん。

 この自粛からの不穏な日常へのシフト、家族で悩む人が少なくなってくることを祈ります。みなさん、自分を大切にね。

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