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やめたこと:期待すること。

 445回目です。φです。

 今日は半年に1回の通院日。先天性無痛無汗症の診察。

 治ることもないし、状態は変わらないし、先生も特に処置できないし。ただ「生きてたよ~」という生存報告をしてきました。データとして記録されるだけなんだろうなぁ。寿命突破中、みたいな(笑)

 スターバックスで呼ばれるまでのんびりしよ~と思っていたのですが、まさかの店休日。あるんですね、病院内のスタバでも!驚きました!

 私は別の大学病院に入院していたことがあるけれど、そこの某大型チェーンのカフェは休んでいるところを見たことがありません。良い人生勉強になりました(笑)

 今日はほんと、色々あったなぁ。色々…色々、あったなぁ…すごく遠い目をしながら現在私はnoteを書いております。ははは…

 そんな本日を振り返って、いつからか私が自然と家族に対して、また人間関係で「やめたこと」について書こうかなぁ。慣れちゃったんだけど、よかったのか、そうではなかったのか。私にはまだ判断できないこと。


 さて、「人なんて嫌だー!」と思ったとき、どうしますか?

 嫌な人を遠ざけますか?反撃しますか?無視しますか?嫌な点を伝えて改善しようと試みますか?嫌だと思いながらも通常通りに対応しますか?

 やり方は人の数だけあると思う。どれもきっと正解じゃなくて、誰かにとってはそれが最善で、もしくは「そうせざるを得ない」のだろう。人の行動とはある程度は考えがあってのものです。簡単に行為だけを聞いて「それは正しい/間違っている」とは言えないものです。

 まぁ、「嫌だったから殴った」とかはいかがなものかと思いますが。暴力はダメなのですよ。「お互いに殴って終わりにしよう!」とか謎の結末を迎えているのなら、私は何も言えませんが。

 私が「やめたこと」は、「人に期待すること」です。嫌だーなんて何度言っても、変わることがないからです。人が変わるって難しいし、その人にはその人の人生に基づいて思考が成り立っているのであって、それを私は変えることはできない。

 「それって放置では」と思われるかもしれないけれども。あ、一応は私一度や二度は考え合おうとしますよ。それで相手が反応や行動しなかったら、「あ、はい了解です」って感じに強制終了しますが。

 しかしながら、家族間では強制終了では終わらないことってあります。私の場合は、「これだけは私嫌なので、やめてね!」と何度も言うのだけれど、「どうして」とか「自分はやめたくない」「自分が嫌だ」とか、そんな反応で何度も同じことをされる。ものすごーく神経に触るようなことでも、毎度言ってもお願い的な感じに言っても、変わらないものです。

 …難題を突き付けているわけじゃないのですけどね!「口を閉じて食事して」とか「しゃべりながら食事しないで」「食事中の話題は考えて」とか。これってマナーだと思うのですよ…。

 かれこれ言ってきたけど、そのうち私は言わなくなった。なぜって、自分が相手に期待していると思ったから。諦めているようで、「自分が言い続けたらやめてくれるはず」という期待があったのだろう。だからこそ言ったんだと思う。まぁ「死なないけど死ぬほど耐え切れない」という私の純粋な感情からの言葉でもあるのだろうけれど(笑)

 個人的にすっごーく嫌な音を聴きながら(あのクチャクチャ的な音ね!)、「また食べながらしゃべってる」と行動を言語化、そして「一生これなんだろうなぁ」みたいな、もはや達観した感じに分析。ただそれだけで、ほとんどの「私の嫌なこと」を終わらせるようになった。

 しかしながら、これは別に「最善」ではない。人に過度に期待しないことは必要かもしれないけれど、それなりに自分に蓄積するものだってあるのです。私はそう思う。

 そう思いながらも、私が家族に注意したり一言言ったりしたら逆ギレ状態になることは分かっている。なんてメンタルに悪い状況でしょうね!(笑)

 蓄積し続けた結果、「…そうだ、殴ろう☆」となったことだってありますよ私の心。イラつくことくらいありますよ、人間だもの。イラついたっていいのです。その後「殴らなかった私えらすぎる」とか思っておけばいいのだし。自分をほめるって大事です。

 それに、ずっと誰かのことを怒って考えるって、そんなに快くない。「なんで嫌いなことにこんなに心を使っているの?」と考えると、自分の好きなことに没頭した方が有意義でもあるわけで。私にとってはね。

 人に期待すると、自分の期待値以下だった場合、人にすごく苛立ちを感じます。「どうして?!」という思いも期待値に比例して募る。期待値が低ければ低い程、「まぁそんな感じだと思ってた~」みたいになる。諦め、とも言えるのかもしれないけれども。

 諦めは良くない。そう言われがちです。けれど、私は時に諦めることも大切だと思う。「諦め」がすべて同じ諦めではないのであって、諦めることが最善のときだってあるわけです。諦め以外の適切な言葉があるかもしれないけれど、私にはまだ見つからない。

 そんなこんなで、今日も色々あっては「ははは…期待してないからいいのよ…」と済ませることが多発しました。明日は私の忍耐力に乾杯しよう。炭酸水かハーブティ、コーヒーで(笑)

 つらつらと書いたけど、私はこの「期待することをやめた」ことが良いかどうかは分からない。なぜなら、それなりに自分に蓄積するストレスもあるわけだから。

 そういえば、大学の頃「ごめんね!やろうと思ったのだけど…」と同チームの子にレポート関係を思いっきり押し付けられたことがあったのですが、思わず「大丈夫、期待してないから自分の分はやっておいたー」と大暴露してしまったことがありましたね、私。

 まぁ常習犯だったということもあるのですが、あれは暴露でしたね。暴露するときはちゃんと考えて暴露しましょうね!(笑)

 さて、期待することをやめる。それがいつの間にか身についてしまったのはなんだかなぁ、と私自身思うこともあるけれど。よかったのかな、とも思う。期待していたら家族に毎秒何かしらのアクションをしないといけなくなるだろうし。それはそれで面倒だと思う。

 人によって人との付き合い方って違うし、人に合わせて異なる付き合い方をしないといけないときだってある。人間様々な顔をもって、社会に属しているわけですから。使い分け、というと聞こえが悪いかもしれないけれども。

 自分にとってストレスのない、安心した場所という人間関係、また安心できないから最善を考えて構築した人間関係、色々ありつつも自分が生きていけるようにしていきたいものですね。嫌なら離れる、どうしても離れられないなら別の場所で自分を癒す、とか。心を大切にね。

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