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「好き」への価値観。

 358回目です。φです。

 春の陽気かと思えば、冬の終わりに戻ったり…と不安定な天気が続きますね。気圧や天候に何かと左右される私は非常に影響を受けています(笑)

 気圧と体調って関係あるの?という方が本当に羨ましい…すごいですよね、同じ人間なのに!

 気圧は注意しても避けることはできないから、正直どうしようもないんですよねぇ。「天気悪いから本日の私は活動が滞っています~」が通用する世界だといいのですが(笑)

 今日は買い出しに行った後、読書していました。色々な哲学をさくっと1冊でまとめている本。要点だけを端的に知ることができる本。

 私はそういった「簡単にまとめて紹介します!」みたいな本が好きです。簡単にまとめられたものであっても、「それってなんだろう!」や「面白い!」という知的欲求は湧いてくる。そこからスタートして、まとめられていない文章を読んで、という行動につなぐことができます。

 きっかけがなければ本は読まないし、気になる本は例え1行でも印象的なものです。私はそう思う。

 本の数がある程度限られている学校図書たちは、後ろから読んでいって「この終わり方かぁ、好き読もう。」「なんか好きじゃない。パス。」と判断していました1冊ずつ(笑)

 最後までネタバレされたくない派にとっては「何やってるの?!」と思うでしょうね、私の行動…しかし、最後を知ってからの逆再生的な読み方が私は好き。分かっているからこその視点があるから。…と、思っています。

 さて、今日は少し本について思うことがあったので、それについて書いていこうかなぁ。


 自称読書家、だと私は自分のことを思う。

 本は読むし、鞄には1冊2冊本を入れているし、旅行などでは絶対に本を連れていく。ないとどっかによって買うくらい(笑)

 月によって読む本の数は異なるけれど、多い時は1日3冊読んだり。読まないときは読まないけれども。

 しかしながら、私は自分を読書愛好家です!とも言えない。自称読書家、程度ですね。まぁ現代の大学生は1冊も自主的には読まないとかなんとかなので、その統計と比較すると「読書をしている」人になるのだろうけれど。

 加えて、私には「好きな作家」がいないのです。読書が好き、という方々は「好きな作家は?」と聞かれても返せるのだと私は思っていて。例を挙げるのなら、村上春樹さんの本が好きな、「ハルキスト」たち。ノーベル文学賞の発表が近くなると、彼らの存在感が増して「すごいなぁ熱意」と私は毎年思います。

 余談ですが、村上春樹さん、無冠の帝王でも良いと思うんですよ。英語だったらuncrowned monarchですよ。かっこいいでしょ(笑)

 単純にかっこいい、という理由だけではなくて、常に接戦を繰り広げられているなんて、すごい実力だと思う。一発屋と言われる実力ではないという証明でもあるのだし。

 実は毎年結果を楽しみにしています私。ささやかに、ですが(笑)

 さて、余談はここまで。

 私は好きな作家がいない。たったひとりの作家の本だけは全て手元にあって、残り1冊を読み切ったら彼の小説は読破します。最後の1冊は、彼の手によって語り終えることはなかったけれど。

 伊藤計劃さんです。作家となって2年でお亡くなりになってしまったのですが、とても素晴らしい作品を残されています。私がこの方のSF小説を手に取ったのは偶然で、なんとなーくタイトルの面白さに惹かれた。「虐殺器官」。

 「器官?!どこ、心臓?脳?いや感覚器官全般?!」と妙に気持ちが高ぶったんですよね~不審に思われていたかもしれない(笑)

 そして読み終わって、SF小説ってこんなに楽しいんだ!となって。あとがきを読むと、彼がもういらっしゃらないことを知った。それから、本を探しまくった。で、購入。

 私がここまでやったのって珍しいかも。小学生の頃はシートン動物記を読み漁ったし、ダレン・シャンも読み漁った。けれども、シリーズものだったから、で2つのシリーズの作者の著書をすべて読んだことはない。

 あくまで、「そのシリーズが面白いから」なんですよね。私にとって作家云々は別もの、なのかもしれない。

 なので、「本好きなんだ、好きな作家は?」には答えられないのです。「読書が好きな人は全員が好きな作家を述べることができる」とは私は思っていないけれど、多くの人は述べることができるのだと思っていまして…割合とかは知らないけれども。

 実は本だけではなく、音楽も然り。好きなミュージシャンは?と聞かれても、「誰だろう…」なのです。音楽は聴くけれども。クラシックでもポップミュージックでも。なんでも。

 「好きな曲」はたくさんあります。けれども、好きな曲調、声、リズム、などなど…私の「好き」が完全に一致したときだけ、その曲を選ぶ。私が好きな曲だと認識する。どれかが欠けていたら、例え好きな曲を歌っているミュージシャンであっても「好き」にはならないのです。ううむ、複雑(笑)

 「好きにはならない」、というよりも「興味がない」かなぁ。「これ、φがよく聴くミュージシャンの曲だよ?」と言われても、「それは私の好きな曲じゃない」になるんですよねぇ。

 この曲が好きだ。偶然にこのミュージシャンだ。

 なのだろう。ミュージシャンが好き→だからこの曲が好き、という方向ではなく。因果関係ですかね。好きを語るにも因果関係を考え出す私、なかなか面倒ですね…いや私が本人だけど(笑)

 「ただそれが好き」という動機が、私にとって一番多いのだと思う。本にしろ音楽にしろ。美術作品に対しては、私はそう思っているのだと思う。

 みなさんはどうでしょう?好きな作家や作者、ミュージシャンがいて、彼らだから「好き」というものになりますか?それとも、手当たり次第に「好き」を見つけますか?

 どっちがいいとか、どっちが悪いとか。その基準で判断できるものではないし、良し悪しなんてない世界のものたちだと思うけれども。どういうプロセスで、手に取って満足するんだろう。人間、不思議。

 まぁ、手当たり次第に好きを集めるのは若干探すのに手間取るんですけどね~。膨大な数から探していかないといけないのです。それが楽しい時間でもあるけれど(笑)

 今、色々と心が揺らぐ時期だと思います。老若男女問わず。だからこそ、改めて自分の価値観や単純な気持ちを知るときだと思う。忙しいと気に留めないだろうし、気にしてもそれに対処する時間はとれないし。けれど、今はひとつひとつを丁寧に探すための時間でもあると私は思います。「いつも」が通用しない今だからこそ、できることはあります。私はそう信じています。

 「これ、好きだったなぁ」でも「これ、好きかも?」でも、なんでもいい。心と仲良くするのも、楽しいものです。

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