見出し画像

親子関係の同一視。

 378回目です。φです。

 風が強くて、何度も開けたドアが大きな音を立てて閉まりまして…あの音、私は苦手だなぁ。好きな人はなかなかいないとは思うけれど。

 昨日はちょっとしたことからふと気づいたことがあります。親子関係って難しいよね、と思いました。

 いまいち親子って思ったことはないような気がするけれど…まぁ、親子以外でも友人や家族と言った親しい人や近い関係の人とは起こる可能性があるかも。

 私は家族以外では起こったことはないけれども。人間関係は人の数だけあるから、これは私が判断できるものではない。そう思います。

 私の場合は親子関係なので、「これは不味いなぁ」と思ったことについて書きます。


 自分のことは完全に分かるものだと思っている。

 これ、家族間、特に母娘感で多いんじゃないかなぁ。今回の話は前提として私の育った環境なので、誰かにとっては似たものかもしれないし、誰かにとっては全く違う世界の話かもしれない。読んでどう思うかはお任せしますが、途中からもやっとしたり、心が重くなったりしたら読むことをストップした方がいいと思います。

 誰かの家庭の話を知って、自分が暗くなってしまうのは非常に心によろしくありませんので!割り切って、「へぇ」という超客観的に読むことがおすすめです(笑)

 完全に分かるものだと思っている、というか「同一視」という言葉が分かりやすいでしょうか。

 何を、というと、自分の感情=子どもの感情、という感じです。価値観や考え方、物事への感じ方も含む。自分がAによって楽しければ、自分の子どももAは楽しいと思う、と思っている。そんな感じです。

 同一視しているので、反対の状況が訪れた場合、また自分の考えが理解されないとき、「相手(子ども)の理解力を貶す」。どうして分からないの、あなたの考え方がおかしいんだ!という感じですね。

 これは先日私が直面したことですが、母親の介護に荷物持ちとして付き合っていたんですよね。車移動中のことなのだけど、荷物の話をしていたら「また〇〇県行くんだって!いつになったら子どもから離れるんだろうね!」と言われまして。

 で、「誰が?」すら分からないスタートでした。そこで「誰の話?」と聞いたところ、「理解力がない」とか、何とか。「主語がないと誰も分からないよ」とやんわり言ってみたところ、「そういう反応するところは父親そっくり!」とお怒りになりまして…。

 本人曰く、自分とよく話している娘なら分かるはずだ、という主張でした。同一視だなぁ、と思いつつ流していたのですが、これは結構問題になるなぁ関係で、と思います。

 母と娘は距離が近いと一般的に言われます。だからこそのトラブルもあるのですが、同一視は起こりやすいだろうなぁ。話し相手が何でも知っている、という誤認は発生しやすいものです。特に話に共感を求める人が、その傾向があるような気がします。

 私の統計ですが!あくまで主張します、私の統計です!

 「自分の話をたくさん聞いている=自分を知っている=自分の言いたいことは全部言わなくても分かる」という認知があるのだと思う。話によって相手を学習していて、それを元に自分の心を理解している、そして自分が話した話を全部網羅している。そう思う傾向がある人ほど、同一視しやすいのかもしれない。

 しかしながら、人間どんなに理解していても「完全に相手を理解している」という状況って難しいんですよね。人は気分によって考え方も変わるし、自分が置かれている立場が変わることによっても考え方は変わります。常にAを支持するからAの考えがこの人の考えだ、という簡単なことにはならないものです。

 ものすごーく一貫した人なら、「この人この態度でこの立場で、この答えしか言わないよねぇぇ」みたいな場合ももちろんありますよ(笑)

 一貫性は大切だと言われます。時には「頑固だ」「柔軟性がない」と評価されるときもあるけれど、無責任に意見を変え続けるよりも一貫性があった方が信頼はされます。現実問題、何事にもひとつの態度でしか対応しない、ということは少ないけれども。

 さて、親子関係。親と子は確かに細胞は似ている場所あるし、DNAだって両親の半分が提供されているのだから「同じ」という認識が生まれやすいとは思うけれど、別物です。

 どちらが正しいとか、どちらが間違っているとか、そういう尺度ではなくて、「親と子どもは別物。別の人間。」なだけだと私は思う。同じ人間、同じ思考回路なわけがないのです。別個体だから。

 よく似ている、というものはあるかもしれない。けれど、多くの人を調査してみたら、その特徴を持った人はいくつかデータで出る可能性だってある。サンプル数を増やせば増やすほど、「似た傾向の人」は出てきます。親子関係、親戚関係じゃなくてもね。

 例えば几帳面さは親譲り、という言葉。可能性としてはあるかもしれないけれど、元から本人が持った特性であるかもしれないし、几帳面な人なんて世にごまんといるし、その几帳面さが本当に几帳面かどうかの尺度ってないんですよね。誰かの主観的な意見を通しての「几帳面」というだけであって、誰かにとっては「怠惰」かもしれない。

 まぁ、「親の特徴は子どもが受け継ぐもの」と思う方はそう思っていても良いと私は思います。そうかもしれないし、そうでないかもしれないから。遺伝と環境の仕組み、関連は分かっているようで分かっていない部分があります。データとして出たとしても、それが全ての人に当てはまるかどうかは分からない。あくまで「データ」なのです。

 可能性をたくさん考えていると、親子なんて同一視できないものです。血がつながっているから人は人の心を理解するのか?とか。ゼロじゃないだろうけれど、100でもない。私はそう思います。

 人間関係って難しいです。けれど、近ければ近い程難しくなると私は感じます。好きな人は好き!な世界だったら、どんなにシンプルになるだろうなぁ。

 同一視の行く先に、子どもを所有物だと思っている場合もある。親子関係って、本当に難しい。

 そんなこんなを考えながら、色々と言われるたびに「知りまっせーん!!!」と雄たけびを上げながら逃亡したいなぁ、とのんびり思っている私です。今のところ、心の中での雄たけびに留めています(笑)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?