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美白・色白は人種差別?

 427回目です。φです。

 非常に蒸れています…!洞窟の中に入ったくらいの蒸れてる感じ。サウナっぽい。

 サウナと言えば、フィンランド発で話題になっていた時期がありましたね!今ではどうなっているのでしょう。密室だし、一人当たりのスペース狭いし。

 私はサウナを初体験したのがフィンランドで、あのぼーっと過ごす時間は珍しくて、考えるには、そして何も考えないにはベストな時間を過ごせると思いました。無音で、時々聴こえる火の音は心地が良いものです。静寂、という状態でしょうか。

 私がドライヤーをスーツケースに入れるのが面倒で、サウナで髪の毛を乾かすというサバイバル精神でサウナに入っていたのも事実ですが(笑)

 1日1回しか使わないのに面倒じゃないですかドライヤー。場所とるし。なくても問題ないヘアオイル持っていっていたので、「ドライヤーはお供させません!」という謎の勢いでしたね。

 フィンランドの常識、「家がキッチンでもサウナを作れ!」だそう。本当にそうでした。サウナへの愛が熱い…!

 せっかく流行って、健康への効果を認識した人の多いサウナ。世界が元に戻ったら、またたくさんの人に愛されるといいなぁ。

 さて、今日は今話題の人種に関して、「これはどうなのだろう?」と思ったニュースがあります。それについて、書いていこうかな。

 なによりも優先すべきは肌の色ですか? 


 私にとって発端は、こちらのニュース。

 「美白のための」という形容詞、これが「白人」と連想されるものでしょうか?日本において。

 まぁこれらの「美白」という言葉に今叫ばれているの問題意識を投影させたのは、日本の会社ではないということが前提ではあるのだけれども。ジョンソンエンドジョンソン、ユニリーバ、彼らの本拠地はイギリス、アメリカです。まさにスタートとなった場所。

 だからこそ、だとは思う。けれど、この波が日本の会社にもやってくる、もしくはそれに合わせるようにと消費者側からの訴えがある日も近いとは思います。

 しかしながら、この「美白」と白人を連想させ、「白を追求することは人種差別」とみなすのは本当にいいのでしょうか?

 何かがずれていっている。私はそう思いました。

 「美的感覚として」の白への思いの違いからのずれ。白人と有色人種、その軸では考えられていなかった時代の美的感覚、それを破壊しているのではないか。

 人種差別、肌の色での云々、それ以上に他国の美的感覚の文化すら破壊しようとしているように思えます。例えば日本では、白人と言われる人たちの肌を目指して美白を称賛しているんじゃない。だとしたら、舞妓さんってどうなるの?おしろいは?

 「色の白きは七難隠す」という言葉も、古くから存在する言葉です。平安時代ではすでに「白い肌」を美しいとする考えが日本にはありました。

 …あ、調べていると類義語でとっても面白いものを発見しまして。「米の飯と女は白いほど良い」、すっごく日本人が米を愛していることが分かります(笑)

 こちらに詳しく日本人と美白について書かれているので、ご興味ありましたらぜひ。

 そもそも、日本人は一般的に表現される白人と言われる人を「白」と表現しなかったみたいですね。色々と読んでいると、「欧米の人って白人なのだろうか…?」と不思議に思ってくるほど。whiteという言葉の直訳なのかな、白人って。

 元から、人種への考えはヨーロッパ発らしい。「初期の人類学を主導したブルーメンバッハをはじめとした学者の、人種分類に由来する。」とWikipediaさんでは書かれています。

 少し調べて私が面白いと思ったことは、かつての日本でも「白人」という言葉が存在していたこと。意味は「素人。奈良の春日神社所属の神人のうち、白い衣を着て神事を務める者。」だそうで。歴史民俗用語辞典曰く。

 まったく違いますね!わぉ!玄人(くろうと)の対義語:素人、の音読みでもあるみたいです。肌云々は後になって、異文化と共にやってきたのだと私は思います。

 日本では、人種の違いによる見た目の違いには、髪の毛で判断していたようで。紅毛人とか。あと「南蛮人」。最初は侮蔑用語として中国からやってきた言葉らしいですが、日本では段々と「異国のもの」という意味に変わったのだとか。

 まぁそれでも、「蛮」という文字をもって侮蔑していたという事実もあります。薩摩などの離れた島、琉球、などに対してはそういった意味を持って使っていたという歴史があります。決して日本が「侮蔑的な意味を知らなかった・言葉が入ってきてからすぐに意味を変えた」ということではない。差別の歴史はあります。

 髪の毛の区別として、南欧系(スペイン・ポルトガルetc...)は「南蛮人」、西欧系(オランダ・イギリスetc...)は「紅毛人」という区別だったらしいですね。

 一般的に黒人と表現される人の記録として有名なのは、「弥助」さんではないでしょうか。織田信長の家来として生きました。

 彼に関する記録に、「黒奴」という表記があったり、最後は明智光秀から「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」(By Wikipediaさん)とか言われたらしいですが…。意図は不明らしいです。逃がす口実なのか、ただの差別なのか。

 まぁ、今回このnoteは「美白という認識=白人への憧れなのか?」というテーマなので、ここら辺はさらっとこの程度にしておきます。

 こういった歴史的な背景を見ていくと、日本が美白を求めるのは「白人への憧れ」ではないのだと私は思う。化粧品に白を称賛するような言葉があっても、不思議ではない。外国を知らない頃からの日本の美意識で、美的感覚なのだと思う。

 その私の考えを前提にしたら、この現在の「美白という言葉を排除しました」と言わんばかりの対応、違和感がある。

 人種云々に対して、人種差別をしてきた側として自分たちの軸に、他の国を振り回しているのではないか?それこそ、人種差別の二次的な差別ではないか?

 確かに、「白は白人」という軸で考えると、白を追求することは黒を排除することにもつながると思う。黒は白以下で、黒は白にならなければならない。

 その軸ではない考えがあることを、この人種差別では軽視されている気がします。

 これは日本において、を私が思って書いているので、別の国では白を追求することで人体への害がある状況も存在します。違法な方法で、肌を脱色するものも存在するのだとか。それを使用してまでも追求したい白がある。

 肌が白いほど有利になる国はあります。東南アジアではそうだと、フィリピンの方からお話を聞きました。また、インドでもそうなのだとどこかで読んだことがあります。

 事情は色々あるにしても、白=白人、というのは早計ではないでしょうか。

 なんだか、本来とは違った方向に過激になっていって、排除・破壊、そういった言葉が思い起こされるような感じがします。歴史的な銅像への態度も。歴史を恨んで、人物の功績を悪とみなすのはどうなのだろう。それこそ、新しい差別を生むきっかけになるのでは。過激になっていると、本来の目的は薄れていきます。集団が過激になればなるほど、分からなくなっていくのが人間の心理です。

 この肌による人種差別が、また別の差別を生みませんように。そして、日本の白の美的意識が、悪とみなされないことを祈ります。

 ニュースでも、美白と人種差別への違いが取り上げられています。これが世界に広まって、肌の色と人種差別以外の軸もまた存在するのだと、知ってほしいものです。

 時々思います。誰もが色のない世界に生きていたのなら、肌の色や髪の色、目の色の差別は生まれなかったのかなぁと。ですが、きっと別の違いを見つけて、少数派を悪とみなすだろうと思う。調和する世界は難しいものです。シンプルなのに、人は何かしらの違いを見つけて優位に立とうとしたがります。

 この美白に対する様々な意見は数多あると思います。ですが、理不尽に時代の流れに従ったものでまとまらない方が文化を失わずに済むのではないかなぁ。なんでも取り入れることが、すべてにおいての最善ではないと私は思う。

 今回の人種差別に対する考えは、私の意見だけで構成されています。これが正しいわけでも、間違っているわけでもありません。ただのひとりの意見です。

 白人と黒人の問題で、アジアは関係ない。日本は関係ない。そう思うのは自由だと思います。ですが、このグローバルな時代、それでは誰かを傷つけることにもつながります。傷つけられることにもつながります。度合いは違っても、考えて、意見をもって、今を生きる人間のひとりとして行動する方が後の「誰か」のためになると私は思います。

 平和的なものでお互いに納得しあって、差別への憎悪が終わりますように。色への誤解や認識のずれが、理解しあうものになりますように。それだけを願います。

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