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- 入院2日目 - これは治療か懲罰か

昨日の夜は寒くて眠れなかった。窓のすきまから標高1000メートルの冷たい風がビュービュー吹き込んでくるし、暖房もあまり効いていない。とにかく寒くて、3枚重ねの綿毛布の中で縮こまっていた。夜中に看護師が懐中電灯を持って各病室を見回るのだけど、廊下で足音がするたびに、部屋の中を懐中電灯で照らされるたびに目が覚めた。

朝6時。廊下と病室の電気がついて、他の患者がゴソゴソ動き出す音が聞こえる。ベッドから起き上がり、手ぐしで髪の毛を整えたら、パジャマを着たままナースステーションへ私物を "借り" に行く。今のわたしは身につけている衣服以外、何ひとつ所持することができない。だから洗顔や着替えのたびにナースステーションへ行って、石鹸やらタオルやら化粧水やらを借りてこなければならない(もちろん使い終わったら返却する)。

なんとか夜勤の看護師をつかまえて(夜勤は2人しかいなかった)必要な物品を手に入れたら、洗面所へ移動する。病棟には男女共用の洗面所が1つある。入って左手に蛇口が6つ並び、右手にコイン式の洗濯機が2台と乾燥機が1台ある。ヘアバンドで髪の毛をまとめ、石鹸を泡立てて顔を洗い、化粧水と乳液をつける、といういつもの手順を踏むだけなのに、かなりナーバスになった。患者が入れかわり立ちかわり洗面所に入ってくるので落ち着かないというのもあるけれど、いちばんの原因は男性患者だ。別に相手からジロジロ見られたりするわけじゃない。でも、身づくろいって基本的にプライベートなことだと思う。だから、隣に見ず知らずの異性(スウェットの上下を着て、ひげを生やしっぱなしにした30代くらいの中背中肉の男性)が立っていたら、安心してスキンケアなんかできない。男女共用って嫌だなぁ、と思う。これからは人がいない時間帯をねらわないといけない。

明るくなって病棟内を歩き回れるようになると、まわりの状況が少しずつ見えてきた。病棟の入り口にはナースステーションとホールがある。ホールにはテーブル、椅子、ソファが配置されていて、患者はめいめい好きなところに座って新聞を読んだりテレビを見たりしている。貴重品を保管するロッカーと公衆電話ボックスもここにある。ホールの先には廊下が1本伸びていて、その両側に病室、浴室、トイレ、洗面所が配置されている。保護室もあるみたいだけど、そちらはナースステーション横の施錠された扉の向こうにあって、様子をうかがうことはできない。人工呼吸などの医療的ケアを必要とする重症患者、暴力的な傾向の患者、わたしのように希死念慮があって自傷のおそれのある要注意人物は個室に収容され、それ以外の患者は大部屋(6人部屋)に入っている。

患者の数はざっと見ただけで40人程度。男女比は半々くらい。年齢は下は18歳から上は80代までさまざま。患者は、① 一目で精神に異常をきたしているとわかる人(あたりかまわず暴言を吐く老人、絶叫する女性)、② この人ちょっとおかしいなと感じる人(歌いながら廊下を走る女の子、ノンストップでひとりごとを言う女性)、③ 外見からは何の異常も見受けられない人、の3つに分類できる。

医療スタッフは精神科のせいか男性ナースが多い。男性患者が不穏状態になってドアをガンガン叩いたり、統合失調症の女の子が幻覚に向かって大声で叫んだり、女性患者が家に帰りたいと号泣して取り乱したりすると、男性ナースたちが文字通りすっ飛んできて、なだめたり、落ち着かせたり、保護室に連行していったりする。なかには体格のいい男性患者もいるから、そんな人が暴れ出したりしたら女性ナースでは太刀打ちできない。だから男性職員が多いんだろうけど、それにしても大変な職場だなと思う。危険手当なんかを支給してもらわないと、やってられないんじゃないかな。

肝心のわたしはというと、一人でじっと部屋に閉じこもっていた。新入りだし、病棟内を不必要にうろうろして周囲の注意を引きたくなかったから。ただ、閉じこもっているといってもやることなんて何もない。持ってきた本も、音楽プレーヤーも、スマホもすべて没収されてしまったから。できることといえば、窓から中庭を眺めることくらい。

ひとりでぽつんとベッドに腰かけていると、だんだん罰を受けているような気分になってきた。心と体を休めてくださいと言われたものの、殺風景で汚らしい病室に入れられ、私物をすべて取り上げられ、移動の自由も制限され、不自由な生活を強いられていると、これは治療ではなく懲罰なんだ、うつ病になって自殺を計画したことに対する社会的制裁なんだと感じられた。こんな施設に入ってしまったら、この先まともな人生を歩むことはできない。精神病院帰りという烙印を一生背負い続け、後ろ指を刺される生活が待っているんだ。この人生は失敗だ。終わってしまったんだ。

そんな思いがむくむくわき上がってくると、耐えきれなくなって涙が出てきた。様子を見にきた坂井ナースに泣いているところを発見され、不穏時の頓服薬を持ってきてもらった。初めて見るピンク色の小さな薬。飲むと体がだるくなって、何も考えることができなくなった。後で知ったのだけど、ピンクの粒は「クエチアピン」といって通常は統合失調症の治療に用いられる薬だった。強い緊張や不安を沈静させる効果があるので、その後の入院生活で何度もこの薬のお世話になることになる。

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