悲しみは娯楽にしなさい
悲しい出来事を思い出して、悲しみにくれる事は、その人しか出来ない娯楽です。それを記憶から無理に消し去ろうとしなくていいのです。ただし、悲しむために時間を浪費してはいけません。自分がやるべきことをちゃんとやって、悲しむゆとりのあるときに、悲しめばいいのだと思います。それは、映画館に悲しい映画を見に行くのと本質的には同じ事です。本当の悲しみの記憶が無い人は、わざわざお金を払って映画館に行き、他人が演じる悲しみに感情移入しなくてはいけないのですから。
この21世紀、苦しい、辛い、怖い、悲しいという記憶はすべて娯楽になったといえます。なぜかというと、マイナスの情動はいま、ほとんど必要がなくなっているからです。たとえば、その昔は、恐怖にはたしかな役割がありました。火が怖いということで、火を恐れ、火を避けました。暗いところでは何かに襲われたりする危険性が高いため、暗いところを避けました。これは本能によるもの。つまり生得的なものです。しかし、現代では危険をさけるために恐怖を必要としていません。
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人間は言語を発明し、ある程度前頭野が進化することによって、言語空間かつ情報空間にリアリティを感じる事ができるように進化しました。そのため、私たちは、直接的な失敗の体験を必要としなくなりました。
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恐怖という危険を避けるための道具は、時代遅れになり、いまや大して役に立たなくなっています。その大して役に立たない情動に囚われ、それが人生を前進させる力を殺(そ)いでいるとしたら、私たちにはそれを思い出さなくてはならない必然性がありません。では、必要ないからやめるかといえば、そんなことに時間や労力を注ぎ込むこともありません
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人間にかかわるもので、今はもう必要ないものはたくさんあります。たとえば、髪の毛です。人類はもう、髪の毛を必要とはしていません。昔は髪の毛も体毛も必要があったはずですが、いまでは頭が禿げているという理由で死ぬ人はひとりもいません。
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では必要性を失った毛が身体から生えていると悪いかといえば、そうではありません。髪の毛についていえば、どう考えても必要性がないものに対して、わざわざ色をつけたり、曲げたり伸ばしたり、いろいろなことをしています。それが、ファッションであり、広い意味での娯楽です。
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それと同じごとで、情動にも、娯楽という新しい役割が与えられました。だから私たちは恐怖映画を観て、あるいは遊園地のジェットコースターに乗って、恐怖を楽しみます。
「悲しみは娯楽にしなさい」 by苫米地英人 | P2S2R&Blog
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