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No.55 1986年 6年生国語科 分析批評による「やまなし評論文」を全児童が書き上げる

 小学校国語科教科書の採択において圧倒的なシェアがあるのが光村図書です。その6年生の教科書に載っているのが宮沢賢治氏の「やまなし」です。その「やまなし」をどのように教えられるかによって小学校教師として国語の力量が問われると1986年当時から言われていたように思います。そのころ、初等科で国語科の教科書の採択は光村図書ではなく学校図書でした(私立学校は学校の判断により教科書を採択しています)。1986年度は担任6年目の年で、6年担任は2度目でした。それ以前でも国語の授業では教科書にない学習材をよく使っていました。今回は「やまなし」も学習材にしてみようと考えていました。その時に参考にしたのが、No.54で紹介した教育技術法則化運動が進めていた「追試」での授業でした。「やまなし」を分析批評という方法で読み取り、ひとりひとり評論文を書くという「追試」の授業を試みたのです。
 宮沢賢治氏の「やまなし」は次のホームページで読むことができます。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000081/files/46605_31178.html
 また、「追試」については佐々木俊幸・西尾一共著『分析批評による「やまなし」への道』(明治図書、1986年)を参考にしました。


 本書の「プロローグ」で佐々木俊幸氏は「昨年度、三回目の六年生を担任したとき、まがりなりにも『やまなし』の授業をすることができたのである。それは、向山洋一氏の『授業展開』を『追試』したからであり、その『授業展開』が『追試』可能な『分析批評』(批評読み)という手法で行われていたからである。」とし、向山洋一氏が示された「やまなし」の「授業展開」を載せています。
  第一次    全文を通読し、語句を調べる(二時間)。
  第二次    視点はどこにあるか検討する(三時間)。
  第三次    対比されている色について検討する(六時間)。
  第四次    対比されている言葉について検討する(二時間)。
  第五次    主題について検討する(二時間)。
  第六次    やまなしを評論する(五時間)。

 時間数についてはやや少ないでしたが「授業展開」通り実践しました。また、事前に「分析批評」で使われる用語についても本書の「用語指導の方法」と同様に指導しました。
 分析批評で使われる主な用語
1 話者(話手)…物語を語らせるため、作者が架空に設定した人物。
2 人物…物語の中に登場する人間・物・動物など。人間・非人間を問わず、人間のように物語中で行動し、思考するもの。
3 視点…話者の作中人物へのかかわり方をいう。「誰の眼を通して」「どこから」物語が語られているか。
4 対比…作品中に表現された二つの概念(言葉)を比べること。
5 クライマックス(山場)…物語における筋の盛り上がり・山場のこと。山場の最高点を特別に「ピナクル」とよんでいる。
6 イメージ語…物語の中で多用され、筋の展開をゆたかにしている言葉。「イメージ」とはちがう。
7 象徴…言葉の奥に込められ、読者によって意識される意味合い。
8 作調…作品中に表現された「色合い」「明暗」「喜びや怒り」などをいう。作品の全般的な傾向などを理解するために用いられる。
9 主題…主材・主想に分けられる。作品の中に込められている思想・考えなどを、自分とのかかわりの中で解釈したもの(主想)、具体的な出来事    や事柄について読みとった内容をまとめたもの(主材)。

話者と視点の関係について


一人称視点


三人称視点

三人称視点をさらに分けると

三人称限定視点


三人称全知視点


三人称客観視点

 ここでは、分析批評による「やまなし評論文」を全児童が書き上げた実践を紹介します。当時社会科と国語科を担当していた6年生「ばら」「ゆり」2クラス80名全員が前記のような学習の過程に沿って字数制限なしで評論文を執筆し、それを印刷しクラスごとに子どもたちが和綴じをしてお互い読み合うことをしました。学習過程が明確なために評論文を書く際もそれほど大きな問題はなく、全体の指導より個別に対応することにしました。学年ではB5版で506頁でしたので、平均一人当たりB5版で6頁ぐらい執筆していることになります。

 

 子どもたちはこのような評論文を執筆しました。3人の子どもの一部分の例です。




 ひとりの子どもの評論文を紹介します(文中のページは「やまなし」を転載するにあたり教師が付けたものを引用しています。最後のイラストは執筆した子ども自身が描いたものです)。

 
序論
 やまなしは、一見ただのわかりにくい物語に見える。かにの成長をえがいた物語に…。だけど、物語を読んで読んで、何度も読んでいるうちにただそれだけではないことがわかる。作者(宮沢賢治)は私たちに何かをうったえようとしているのではないかなと私は思う。かにの目を通して人間に…。この物語に出てくるなぞめいた言葉、そういうものを一つ一つじっくり考えていくうちに、この物語の本当の意味がわかるのではないかと思う。
本論
(1)五月
 一、クラムボンとかにの子供たち
「クラムボン」とは宮沢賢治がつくった言葉で、そのはっきりした意味はだれも知らない。私はクラムボンについていろいろ考えた。まず、かにの子供らが
「クラムボンはわらったよ。」とか「クラムボンはかぷかぷ笑ったよ。」などと言っていることから、かにの子供らはクラムボンのことを知っていたということがわかる。授業の中で、「クラムボンて伝説の中のえいゆうではないか」という意見があった。私はその時「うん、なるほど。」と思ったが、何度も読んでいるうちに、「本当にそうなのか。」と考えるようになってきた。なぜそう思ったかというと、かにの子供が「クラムボンはかぷかぷ笑った。」とはっきり何度もいっているからである。そしてまた、「クラムボンは殺されたよ。」ともはっきり言っている。もし伝説の中の人ならば「クラムボンはかぷかぷ笑ったんだろう。」などと言うと思う。かにの子供がはっきりと「クラムボンは殺された。」と言えたのは、この子供がクラムボンが殺された所を見たからだと思う。つまり、クラムボンは最近の人物だったのだ。そして、弟のかにがクラムボンがかぷかぷ笑ったことまで知っていることから、クラムボンとかにの弟がしたしかったことが分かる。
 二、五月の視点について
 (弟のかにはまぶしそうに、目を動かしながらたずねました。)(兄さんのかには、はっきりとその青いものの光がコンパスのようにとがっているのを見ました。)この二つの兄さんと弟について書かれた文にはっきりとちがいが見える。弟のかにの方の文章には、まぶしそうにと書いてある。そうにということは、本当にまぶしかったかどうかわからないがそう見えたということになる。つまり、弟でない人が弟のことを見ているということになる。でも、兄さんの場合ははっきりと見ましたと書かれている。このことから話者が兄さんの中から周りを見ているということになる。したがって三人称限定視点になると思う。
 三、五月に出てくる色について
 五月に出てくる色は、青白い、鉄色、青、水銀、銀、黒、白、赤である。これらの色のことをよく注意して「やまなし」を読んでみると、6ページまでの色と7ページからの色とふんい気がちがうことだ。6ページまでに出てくる色は、青白い、青、水銀、銀である。7ページからの色は黄金、鉄色、黒、白、青、赤である。6ページまでの色は暗い感じがして、7ページからの色は明るい感じがする。それもそのはずである。7ページに日光の光が降ってきた。日光の光が7ページから夢のように降ってきたということは、それまでがまだ夜が明けてなくてやっとお日様が出てきたのではないかと思う。でもなぜ明るい所の方がおそろしいことがおこっているのだろうか?疑問に思う。
(2)十二月
 一、十二月に出てくる色について
 十二月に出てくる色は、青白い、白、青、黒、黄金である。十二月は皆似た様な感じの色ばかりだ。だがただ一つ黄金色だ。後はいかにも水の底という感じの色ばかりである。いったいこの二つの色の差は何だろうか。後でじっくり考えてみたいと思う。
 二、視点について
 (かにの子供らはあんまり月が明るく水がきれいなので、ねむらないで外に出て、しばらくだまってあわをふいていました。)(父さんのかには、遠眼鏡のような両方の目をあらん限りのばして、よくよく見てからいいました。)この二つの文を読むと、かにの子供らにも父さんにも話者が入っていることがわかる。なぜなら、外から見ただけではどうしてかにの子供らが外に出ているかはっきりしたことはわからない。そしてまた外から見ただけでは父さんのかにがよくよく見たかどうかわからないからである。ということは話者が誰の中にも入りこめる三人称全知視点になる。
 三、青白いほのおと青いほのおについて
 十二月の中でほのおは青白いほのおから青いほのおに変わっている。そして、また青白いほのおに変わっている。青白いほのおは波がはげしくない時ゆらゆらという感じの時をあらわしていて青い時はザッブーンという大きな波をあらわしていると私は思う。そして、その波はかにたちの心の動きをあらわしていると思う。なぜそう思ったかというとはじめ波が青白い火を燃やしたり消したりしていた時は、かにの子供たちは周りのことなどについて考えるぐらい心は静かだった。しかし、やまなしが落ちてきたその時かにたちの心は静かだったろうか。いやけっしてそうではなかったと思う。「このままやまなしが流れてしまったらどうしようか。」とか「早く食べたいな。」などと考えて心はけっしておだやかではなかったと思う。その気持ちはドキドキというか何ともいえない気持ちだ。言葉には表せないかにたちの気持ちの変化を宮沢賢治はほのおで表したのだと思う。
(3)五月と十二月をまとめて
 一、色について
 五月の6ページまでの色と十二月の色はとても似ている。まだ両方ともお日様がのぼる前だからなのかもしれない。なぜ宮沢賢治は一番明るい色の時に魚を殺させたのだろうか。これには二つの考えがある(十二月と五月の6ページまでの色はとても暗い感じがし、7ページからの色は明るい感じがする)。一つは、五月の始めの方にも十二月にもおそろしいことはたくさんあるのに、ただかにたちがそれに気付かないという考え。二つ目の考え方は、きれいな色や明るい色は外からみれば素敵だけど中身はおそろしいんだと表すために宮沢賢治は明るい時におそろしいことを書いているんだという考えがある。この二つの考えのちがいによって五月と十二月のイメージや象ちょうがまるでかわってしまう。
 二、音とにおいについて
 五月には音がなく十二月に音がある。五月ににおいがなくて十二月ににおいがある。はじめ私は不思議だなと思った。しかし、この中に五月には音もにおいもなかったとはっきり『やまなし』の中に書いてある訳ではない。ということは、五月には音やにおいはあったがただそれにふれていないだけではないか。人は何かに夢中になっている時それ以外のことは目に入らなくなる時がある。この場合かわせみが来た時音がしないはずがない。つまり、かにの子供たちはクラムボンやかわせみのことなど考えていてにおいや音など気にするよゆうがなかったのだと思う。
 三、時…
 (かにの子供らはもうよほど大きくなり底の景色も夏から秋の間にすっかり変わりました。)この文から時は流れ、かにの子供たちもだいぶ成長したことがわかる。しかし、同時にもっと大切な物がかにの子供たちから消えてしまったような気がしてたまらない。それはなぜか…。五月でかわせみが来た時、二ひきのかにはまるで声も出ず居すくまってしまった。しかし、十二月でやまなしが落ちてきたのをまだかわせみだと思っている時はただ兄さんのかにが首をすくめただけだった。もう、かにの子供たちはかわせみが自分たちを殺さないのを知ったからだろうか。でも、なぜ五月に父さんがあれだけ「だいじょうぶだ。安心しろ。おれたちは構やしないんだから。」と言ってもかにの子供たちは「こわいよ。お父さん。」と言い続けたのだろうか。それは、その時のかにの子供たちにとって自分が殺されるか殺されないかより、死そのものがおそろしかったからだと思う。しかし、今はどこかで何かが殺されても何も感じなくなってしまった。何も感じない。それは何よりもおそろしいことだと思う。かにの子供たちは大きくなり色々なことを知った。でも何よりも大事な物、す直な心を失ってしまった。これを宮沢賢治は白い岩で表していると私は考える。7ページ目に白い岩が出てくる。白い岩は11ページには白いやわらかな丸石にかわっている。白い岩は長い年月の間にけずられて白いやわらかな丸石にかわったのだろう。人間も同じ。人間は姿形は大きくなる。そして、生きている間にいろいろなことを知る。その反面、人を疑う心やずるがしこい考えもでてくる。昔のす直な心、やさしい心(一番大切なもの)がすり減っていく。それを宮沢賢治は言っているような気がする。
 四、三つの死
 三つの死とは「やまなしの死」「クランボンの死」「魚の死」だ。クラムボンと魚の死は似ている。五月では魚とクラムボンが死んだ。この時かにの子供たちは大きなショックを受けたのだろう。だから、こわがったりあるいは悲しんだりしたのだと思う。しかし、やまなしが死んだ時はかにたちは悲しまなかった。反対においしい酒ができると喜んでいた。やまなしが落ちてきたということはやまなしが死んだのと同じなんだということにたぶんかにたちは気がつかなかったのだろう。人は自分に関係するものが亡くなった時とても悲しむ。しかし、一りんの花がかれても一ぴきの蚊が死んでも人が悲しんだほど悲しまない。そういうことを宮沢賢治はうったえているのだと思う。
(4)主題
 この主題は人間がすべてのものを愛しどんな小さなものにもやさしく接し、いつもす直な心をもつことが一番大事だということだと思う。そして、本当の平和とは何かを考え実行するのが私たちの役目だと思う。
〈結論〉
 私ははじめて読んだとき、五月の方がおそろしい月で、十二月の方が平和な月だと思っていた。確かにそうだ。でも、十二月が本当に平和な月なのかはわからない。ただ、おそろしい事に気が付かなくなっただけではないかと思うようになった。これらは私の勝手な想像なのかもしれない。ただ、はっきりしているのは、この『やまなし』がただかにの成長をえがいただけの物語ではないこと。私には、宮沢賢治が人間をかににたとえて、人間の弱い所を人々に教えているような気がしてたまらない。

 私(わたくし)の「分析批評による『やまなし評論文』」の紹介は、これでおしまいであります。

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